「合理的な疑いを越える証明」がなければ、被告人は有罪とされない

明石・砂浜陥没事故 国、市の4被告に無罪(神戸新聞ニュース)
「事故の予見可能性で検察は、事故現場の陥没のメカニズムより、同じ構造の砂浜で多数陥没があった事実を重視。どこで陥没が起こるか分からない以上、「砂浜全体を立ち入り禁止にすべきだった」と主張した。だが地裁は、事故現場で陥没が起きることを被告人が予見できなければ、過失責任は問えないとした。予見可能性の立証をより厳しく求め、検察が描いた事件の構図は完全に否定された。」

刑事訴訟法の第336条をご覧下さい。

第336条〔無罪の判決〕

「被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない。」 

たとえば砂浜の特定の場所が立ち入り禁止にすべきほど危険だったことが、関係者には事前に予見可能だったのだと、はっきり証明できなかったとき、告発した検察側が受ける不利益のことを挙証責任とよびます。

もし裁判所がそこに犯罪の事実を確信できなければ、その不利益に従って、犯罪の証明がないことにより無罪の判決がなされます。

これが刑事訴訟法の336条です。

被告人とは、法技術上、「疑わしきは被告人の利益に」という法格言の下、ディフェンシブな態度が許容されている存在だといえます。

ではなぜ被告人という席にはそのようなアドバンテージが用意されているのか、光藤景皎 口述刑事訴訟法〈中〉成文堂から引用して説明してみます。

もともと「疑わしきは被告人の利益に」という原則は、ヨーロッパで行われていた”とても疑わしい”という罪、嫌疑刑が廃止されるとともに成立しました。

「疑わしきは被告人の利益に」を刑事訴訟の原則から外さないことは、嫌疑刑を再びその場所に戻さないためでもあります。

(嫌疑刑というものを一旦受けた後の無実のあなたの人生がどのようになるのかイメージしてみてください)

やがて嫌疑刑は廃止されましたが、代わって仮放免という制度が現れました。

仮放免というのは有罪の確証は得られないものの、十分な反証もあったとはいえない時、仮の無罪判決を言渡すもので、有罪の証拠がでてくればいつでも審理を再開することができた制度です。

しかし仮放免では「合理的な疑いを越える」有罪の証明がなくとも真の無罪とならず「疑わしきは被告人の利益に」の原則が貫徹しません。

そこで国家の側での犯罪の十分な証明のない限り、「無罪の推定」をうける市民の一人としての被告人は、確証無罪判決のばあいと同様の無罪判決を受ける権利を有する、それなのに仮放免はこの権利を侵害するものだとの主張が強力になされ、やがて仮放免も廃止されることになります。

それは「疑わしきは被告人の利益に」の原則を完成させました。

ところで刑事手続では「合理的な疑いを越える証明」(通常の経験知識をもつ人が、抱くのももっともだと思われる疑問を克服した証明)がなければ、被告人は有罪とされないという原則が早くから採用されていました。

一方で民事訴訟では「原告立証せざるときは被告は免訴さる」という原則がありますが、これはつまり、原告の証明が被告のそれに優越していればよいだけです。

なぜ刑事訴訟においては「合理的な疑いを越える証明」という高い基準が要求されているかといえば、一言で言って、有罪判決が人の生命・自由又は名誉にとって回復しがたい重大な不利益をもたらすものだからです。

したがって「合理的な疑いを越える証明」という基準は事実誤認にもとつく有罪判決の危険を最小限にするための主要な手段となったのです。

被告人は「合理的な疑いを越える証明」がなければ有罪とされることはない、それを言い換えたものが336条、「推定無罪」です。

推定無罪という装置はわたしやあなたの暮らす場所を「推定善人の街」として成り立たせ、また誤ってあなたが罪人と疑われ捕らえられたときのためのエアバッグ(適正手続)としても機能するということです。

さて、専門家は「砂層中に大規模な空洞が発生しているのに、地表に異常が見られない現象は、土木工学上一般的でない」とその予見可能性を否定しました。

しかし”人工の砂浜”で陥没事故が起きて少女の命が飲み込まれたという悲惨な”結果”だけがあって、そこに”原因”を作った人はいない、というお話は、たとえ小学生であろうともこれを納得させることは難しいでしょう。

事実ニュースキャスターがその疑問を純粋に司法機関のだした結論へ投げかけているのを見ました。

民事では賠償責任を自ら認めた国交省明石市は、刑事法廷では推定無罪というカーテンの向こう側へ消えることになりました。

しかしそれは刑事訴訟という特別重大な罰が用意されている場所だけに用意された、特別な法原則であるともいえます。

刑事訴訟上”「合理的な疑いを越える証明」がなければ無罪と推定する”取り決めと、”話の真実として無罪である”ことは、かならずしも同義ではないことは知っておいていいでしょう。

そうでなければ理由も知らされず砂に消えた少女の思いが浮かばれません。




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