男はアトリエを訪れ服を全て置き忘れた

洋画家・和田義彦氏、作品酷似で文化庁に調査うける(サンスポ)
「今春の芸術選奨で文科大臣賞を受けた洋画家の和田義彦氏(66)が、主な受賞理由だった昨年の展覧会に、知人のイタリア人画家の絵と酷似した作品を多数出展したとして文化庁が調査していることが28日わかった。「盗作された」とする伊画家に対し、和田氏は「似た作品」と認めながら「同じモチーフで制作したもので、盗作ではない」と主張している。」

著作権法の10条1項4号をご覧ください。

第10条 この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。

4.絵画、版画、彫刻その他の美術の著作物(以下略)」 

絵というものが売っているもの、それは言語がそれを捕まえる以前の段階にある何かを作家といっしょに凝視すること、であるような気がしています。

自分の好みは別として、絵画の鑑賞やその所有がもたらすものとは権威や換価性など、対他的効果などにはなく、本来極めて、特に本質的に対自的であるはずです。

お前は音楽がわかるかという愚問がタワーレコードに集う客同士で一切交わされないように、歴史上個人が絵画に求めてきたものも、わかるわからない、有名無名、高尚低俗ということではありませんでした。

(それは板切れに描かれたキリストの姿が始まりだといわれます)

鑑賞者は億万長者であろうが心の汚れた人であろうがそんなことに関わりなく、絵画の鑑賞においては、最後に自身をどこまで信頼できるかだけが試されることになります。(極私見)

その上で最後に掌に残った画家の名前だけが、とりあえずの自分にとって重要な画家ということでいいのではないでしょうか。

(個人的にはピカビアや若冲が好きですが、それはどうでもいいことです)

絵画には極私的で小さな真実が、その向こう側に、鑑賞者どころか作家自身に対しても発せられる問いかけとして存在していることだけが(本来)求められてきました。

するとひとつの絵画に権威を与えるべき拠り所とは、自らの存在の全てを技術を頼りに、どれほど”名前のないもの”に対して投げ出すことができた作品なのかという点に(ややこしい人的関わりを捨象すると)なるような気がするのです。

してみれば別の作家のアトリエを訪れた作家が、そこにあった絵とそっくりのものを世に送り出したとしたならば、彼はその作家人生で身を投げ出したことのなく、はじめからそのつもりもなかったのだと裏書してしまったことになります。

わたしたちの暮らす世界の目に見える部分は、違反がはっきりしたならば著作権法がそれを妥当に処理してくれるはずですし、画家の神聖のために著作権法はその10条1項5号を用意しています。

しかし彼が権威という法が縛れないものを手放したくないのなら、むしろ権威は彼に授けたままでいいと思います。

それは絵を描く上で権威などどうでもいいものとは、少なくとも思っていないことを意味するのですから。



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