部分社会:管理されない宝島

最後にサプライズ 久保が落選(スポニチ)
「この日、久保は体をケアするため山形にいた。落選の一報は移動中の新幹線の中。佳奈子夫人(29)からの電話で知った。一昨年10月から椎間板(ついかんばん)ヘルニアの治療に専念し、全国を回って治療を重ねる努力を見てきた夫人は「居ても立ってもいられなくて…」と長女と二女と一緒に迎えに来た。大好きな父親が落選したことを知った長女は「ジーコ嫌い」とショックを受けていたという。」

憲法の76条1項をご覧ください。

第76条〔司法権

「1 すべて司法権は,最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。(以下略)」

ルマンの松井大輔など、個人的には他にも入れて欲しかった人材が漏れてはいますが、たとえば司法にその不服を訴えることはできるでしょうか。

司法権とは、紛争に法律を適用して結論を断言、強制できる国家の権力のことです(私的定義)。

そのような権力があちこちの機関に分際していたのでは、いつのまにか”ケンカの強い軍事裁判所の結論のほうが、一般裁判所の結論より優先する”という世の中になりかねません。

そうすると”なんのことはない、司法権とは結局時代の支配者の機嫌とゲンコツの大きさのことか”と思われ出しかねません。

そこで憲法76条の1項は司法権最高裁、高裁、地裁、簡裁など一系統内から外に漏れ出さないように密封し、司法権の真実を形作るようにしています。(極私見)

ただしこの司法権、なんでもかんでも自由に裁きうる権力では決してありません。

形式的には裁判所が判断を下せる問題だとしても、司法権による裁定をもたらさないほうが紛争中の関係各位にとっても裁判所にとっても幸福である問題というものが世の中には存在します。

たとえば大学の単位認定に関する紛争や、宗教上の教義の解釈に関する紛争などです。

それらと司法権が対峙するとき、司法権の限界の問題と呼ばれて結論の出口が考査されることになります。

判例はこのとき、一般市民法秩序と直接関連しない純然たる内部紛争は、すべて司法審査の対象にはならないのだと線を引きますが、この考え方が一般に「部分社会の法理」と呼ばれています。

ただしこの理論、用い方一つで人権歪曲を局所的に放任するツールとなり得ますので、学説上はその一般運用に抵抗して、「そこに限界があるかどうかは事案ごとの個別判断が必要である」のだと唱えています。

もしエースストライカー、久保竜彦選手や、最後までジーコ監督と上手くいかなかったディフェンダー松田直樹選手がW杯日本代表メンバーから漏れてしまった選考の不当を、誰かが法律的に訴えようとしても、裁判所はあえて日本サッカー協会の裁定には踏み込まないように、「部分社会の法理」を持ち出す可能性が大きいと考えられます。

スポーツという、せっかく権力から純粋に自立した社会(というファンタジー)には、裁判所の役割などあえて最初から割り振られていないからです。

さらにはそのような場所に強引に司法権を出動させれば、せっかく密封した司法権の濃度を薄くすることにもなりかねません。

日本代表を選抜するという役目を引き受けた監督は、その時点であらゆる贔屓からの罵声を浴びることを覚悟していますが、国際試合での勝利の味を都合良く味わいたいだけのファンの方は、往々にして負けたときに監督の人選を罵りがちです。

しかしろくに走ることも出来ない私にも、もしドイツW杯に自立的に参加できる方法があるとすれば、「ジーコジャパンはきっと勝つ」という言葉を粘り強く最後まで送り続けるという態度を選択することこそ、それであるはずなのです。


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