ロボトミーの開発者はノーベル賞をもらった

引きこもり支援NPO 無理やり連行・監禁、ほかに数人朝日新聞
「関係者によると、杉原代表らが入寮者を自宅から連れ出す際などに手錠を使い始めたのは、昨年9月に現在の寮を運営し始めて以降という。体を縛り付けるのに鎖を使ったのは2、3年前からで、当時は同市東区内に施設があった。捜査1課と北署の調べに対し、北区の寮の1階大部屋で生活していた数人が、昨年から今年にかけて手錠で拘束されて車に押し込まれたと証言したという。手錠は、手だけの場合も手足に使うケースもあった。手錠を掛けて車に押し込む方法を職員らは「拉致」と呼んでいたという。」

憲法の第18条をご覧下さい。

第18条〔奴隷的拘束および苦役からの自由〕

「何人も,いかなる奴隷的拘束も受けない。又,犯罪に因る処罰の場合を除いては,その意に反する苦役に服させられない。」

わたしたちが自分なりの幸せを見つけるためには、その意思を自由に発露できること(表現の自由)、意思の容れ物である体が穏当にあれること(人身の自由)の保障が兼ね備えられた世界が用意されていなければなりません。

中世欧州には結社やギルドによって何重にも意思の発露や移動の自由が制限されていたため、命をそのままの形で拡張していくことができない時代がありました。

そのため第三身分と呼ばれた市民たちは自己の内部から突き上がる無言の衝動に動かされ、国家以外の中間団体の存在を否定、ただ国家によってだけ制約される仕組みを要求しました。

これが市民革命です。

そしてその結果生み出されたものこそ、ほかならぬ統治者までをも拘束するのだという近代市民憲法であり、わたしたちの憲法もこれに従って「人の尊厳」が国家権力の発動をも限界づける原理を採用しています。

抑圧されてきたただの庶民たちの意思の集積は、19世紀を「憲法の世紀」と呼ばせるほどに世界各地を変革してきたのです。

ただし自由意思といえども、R・ドーキンス「利己的な遺伝子」竹内久美子さんの説に従えば厳密には存在せず、それは単に遺伝子の乗り物に過ぎないという一面を持つのかも知れません。

ただしそれを含めて勘定したとしても、私たちの内心の自由や人身の自由は法律によって、つまりシステムとしての保障を要求するに足りる価値を備えますし、それに対する一切の制約は許されません。(そもそもそれらの自由はどれだけ保障しようとも他人の権利を侵害しません)

たとえ生物学的には厳密な完全自由意思というものが存在しないのだとしても、そのために用意された極私的な領域さえ制約されるのだとすれば、その世界はわたしやあなたがこの世界に真の意味で存在することを要求していないも同然となるからです。

奴隷的拘束の禁止の例外が許容される世界とは、潜在的に”いつでも大量の兵士を量産できる”社会を意味するため、憲法18条にいう「苦役」には徴兵制も該当するのだというのが学説上の通説でもあります。

ひとつの価値観から眺めてたとえどのようにだらしなく見える人がいたとしても、「彼を改善する」という名目をもって人身の自由の例外を認めるわけにはいきません。

ほんの三十年前まで、「彼の人格を改善する」という名目のもとに、頭蓋骨にドリルで穴を開け、前頭葉の神経繊維を切断するロボトミー手術がここ日本でも行われていた、それもまた「時代の善意」のひとつの足跡でもあるのです。

行動としてはどのように怠惰に見えようが、そこにはただ要領よく立ち振る舞えない人が自分とも上手く折り合いをつけられず苦しんでいるだけなの”かも”しれません。

まるで憲法19条、「思想・良心の自由」という絶対領域を一歩手前で守護するかのごとく、憲法18条、「奴隷的拘束の禁止」は一条前に意識的に配置されています。(私見)


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