地獄のメードとクラインの壺

メイド服の女、名古屋の地下鉄でスプレー噴霧(Yahoo)
「1日午後2時5分ごろ、名古屋市営地下鉄桜通線を走行中の中村区役所発野並行き電車(5両編成)で、3両目に乗っていた小学5~6年生男女児5人が、のどの痛みなどを訴えた。児童らは、「女が車内でスプレーを左右に振るように噴霧した」と話しており、瑞穂署は傷害事件として捜査している。調べによると、女は年齢20~30歳で、身長1メートル60~70。茶髪でピンクのメイド服のようなものを着ていて、瑞穂運動場西駅で降りたという。車両内には約50人の乗客がいたが、他の乗客は騒ぎに気付かなかったという。新瑞橋駅員が車内を確認した時には、異臭はなく、5人の症状が軽いことから、同署は噴霧されたのは催涙スプレーなどではないとみている。児童らは遠足帰りだった。」

民法の1条1項をご覧下さい。

「第1条〔私権の基本原則〕

1 私権は公共の福祉に遵う」 

わたしたちの民法は、その第1条で私権行使の原則を示しています。

私権とは、わたしたちが国家に対して主張しようとする「公権」とは異なり、わたしとあなたの間でお互いに主張しようとする国家を抜きにした権利のことです。

皆が国家を介在させないで自由に契約などを取り交そうという社会を貫く思想のことを「私的自治の原則」と呼んでいますが、如何に大切な私権であっても、社会公共の利益と調和しうる範囲を超えた効力は認めない、1条1項はそう宣言しているのです。

ところでイギリスの法史学者メインは、主著「緬氏古代法」のなかで「身分から契約へ」という有名な言葉を残しています。

それは古代の人間を規定していたのが身分であったものが社会の発展に伴い、個人の自由な意思に基づく契約がしだいに社会関係を規定する要素となるに至ったという事実を端的に表したものです。(参照:法律学小辞典 有斐閣

メインの言に従えば国家権力抜きの「私的自治」という横のルールを獲得するまで、わたしたちは身分制度から自立できなかったことになります。

かつて浅田彰さんも「構造と力」のなかで、クラインの壺(内側が外側につながる、ねじれた構造をもつ壺)にたとえ、壺の底辺にいるわたしやあなたは権力受託機関という頭上の出口を持つことで回帰的に自分達を強化し、そのことがまた再び権力受託機関を強化する、しかもその誘導は全て内在的に行われるという点を指摘しています。

してみれば自らが社会の役に立ち、社会がわたしたちの幸福を再強化するという循環を手に入れるためには、まずこのクラインの壺の構造をした私的自治社会に帰属しようとする意思をもつことが第一条件となります。

人目をひく派手な格好をした女性が、思い出を作って順当に幸福になろうとしている小学生達に向かって催涙スプレーを撒くことは、「自分は私的自治の壺に帰属できておらず、再強化の恩恵も受けていない、そのような自分が嫌いであるし、私を上手く参加させない壺もきらいである」というような女性の思いを表現しているのかもしれません(極私的印象)。

もしこれがそのような事件ならば、問題の鍵は”壺はいつでもわたしたちが内在的に機能させている”というところにあります。

どのような理由で社会への帰属欠如感を感じているにせよ、他人に迷惑をかけないつもりなら私的自治というクラインの壺はそもそも誰にでもその入り口を見せています。

民法1条1項文言はまるでその種明かしをしているかのように、私法のいちばん初めに置かれています。

法理メール?