検察が雛壇から下りてきたのは60年前

明石歩道橋事故:遺族が要請書 最高検の対応も批判(毎日新聞)
「01年に兵庫県明石市の花火大会で見物客ら11人が死亡した歩道橋事故で、遺族らは29日、最高検に対し、当時の明石署長と副署長を業務上過失致死傷罪で起訴するよう神戸地検に指揮監督することを求め、要請書を提出した。ところが、最高検の担当者は話をほとんど聞かずに立ったまま書面を受理。遺族は怒りをあらわにした。遺族らによると、要請書の提出は事前に最高検に伝えていたが、提出の際に最高検の担当者3人はガラス張りで外から丸見えの「待合室」に遺族を招き入れ、その場で立ったまま要請書を受け取り、遺族側が要望するまで名刺も出さなかったという。遺族側は会議室などで対応するよう求めたが「今までもここで受け取ってきた」と取り合ってもらえなかったという。」

検察庁法の第2条をご覧下さい。

第2条〔裁判所との対応〕

最高検察庁は、最高裁判所に、高等検察庁は、各高等裁判所に、地方検察庁は、各地方裁判所に、区検察庁は、各簡易裁判所に、それぞれ対応してこれを置く。」

最高検察庁とは、文字通り検察機関の最高総司令部のことをいいます。

最高検察庁は、この春のおだやかな日差しを都心でもよく受けることのできる日比谷公園のすぐそば、検察合同庁舎の八階にあります。

検察というものを理解するために、少し長くなりますがその成り立ちを以下「日本の検察(野村二郎著)」という書籍から参照させていただきます。

日本では824年、すでに独立した検非違使庁が設置されました。

それは不正を発見し、理非を正し、処断する警察・検察・裁判の三つの権限をあわせもつきわめて強力な機関でした。

明治初期の1871年には司法省が設置され、翌72年には太政官達によって司法職務定制が規定され、ここではじめて検事の名称がデビューしました。

このなかでは「検事は、法憲及び人民の権利を保護し、良しを助け、悪しきを除き、裁判の当否を監するの職とす」と規定され、勧善懲悪を職務とする検事の立場をきわめて鮮明にしていました。

検事がやがて犯罪者を訴追する検事独自の権限をもつようになったのは、大日本帝国憲法が発布された前後です。

しかしそれでも検事は裁判があるところに中央から派遣される形になっていました。

刑事訴訟法が施行された1890年、検事は各裁判所に付遺されるようになりました。

戦前の検察は、警察を指揮する権限をもち、また、司法機関を事実上支配していました。

それが証拠に歴代司法大臣は検事出身者で占められ、裁判所の人事や予算などに強い影響力をもっていましたし、裁判官は検事に気がねする雰囲気が強かったといいます。

さらに検察は弁護士会をも監督する権限をもっていました。

しかし、敗戦の結果、アメリカの日本民主化政策のなかで、司法制度も改革されることになり、新しい検察庁法のもと、現在の検察があゆみはじめました。(参照:日本の検察―最強の権力の内側  野村二郎  講談社現代新書

戦後の司法改革で、検察は裁判所を支配するものではなく対置する立場と位置づけられ、最高裁判所に対置する位置に最高検察庁を並べ置くことになりました。

検察庁法第2条はそのことを表現しています。

しかし法的定義を捨象して行われている現実を見てみれば、検察という機関の権力はわたしやあなたに対していまだ強大なものがあるといえます。

適正手続の原則からすれば検察にはは被告を有罪にもちこむための立証活動とともに被告に有利な証拠をも明らかにするフェアな態度も要求されるにもかかわらず、日本の刑事裁判の有罪率は実に99.97パーセントです。

このことはへたに無罪判決をもたらす起訴をなした検事が左遷されられたような歴史をかえりみれば、「実質裁判所とは、いまだ検察庁のことである」のだと言っている可能性もあります。

司法の改革は、裁判所をより市民に身近な施設として感じられるよう啓蒙に努めるとともに、検察がもやは司法を事実上支配するものではないことを自己証明していくことをも要請しています。