孤立させられないために孤立させよう

海自いじめ:1等海士が自殺 両親が国と元隊員を提訴へ毎日新聞
「両親や弁護士によると、護衛艦「たちかぜ」勤務だった1等海士は04年10月、東京都内で鉄道自殺した。先輩隊員の元2等海曹(35)=暴行罪などで懲役2年6月、執行猶予4年が確定。懲戒免職=が半強制的に誘い、艦内のCIC(戦闘指揮中枢)でサバイバルゲームと称してエアガン、ガス銃で撃つ執ようないじめを繰り返すなどしたため、自殺に追い込まれたと述べる方針。また上司らは、元2等海曹の後輩いじめに気付きながら艦長への報告を怠り、自殺を未然に防がなかったと主張することにしている。」

教育基本法の第10条をご覧下さい。

第10条(教育行政)

「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」 

大量の人が撃たれたり燃えたりしながら死んで戦争に負けるまで、わたしたちの国の教育は国家が主導権を握り、子供達は「天皇が統治権の総攬者である(天皇だけが主権者である)」と教育されていました。

戦争が終わると主権者の意味は書き替えられ、それは私たちひとりひとりに分在しているのだということになりました。

そして教育の現場でも、制度と内容と方法のすべてが上からの押しつけではなく、下から、すなわち国民の意思を反映して行われるべきであるという思想が色濃く反映するようになりました。

この民意との直結が、戦後の教育行政における民主主義の原則です。

民主主義とは身も蓋もなくいってしまえば全体の利益を優先製造する装置であり、つまり少数派に属する個体ほど常に無力感に襲われ続けるからくりになっています。

どのような孤高な芸術家もたった一人で生きていくことはできず、大なり小なり己の個性と集団帰属のための要件との折り合いを身につけざるを得ません。

数の論理が正の論理になりやすい民主主義社会では有力視されるクラスタに自らを所属させなければ、有力な流れへ向き付けされた人的ネットワークのなかでいつか孤島と化してしまいます。

如何に有力な集団に所属するかが、より大きな収益を得るために重要になり、親は今日も子供にそれを熱心に勧め続けます。

個体が心細さの中で、自らの所属するクラスタをより色濃く感じたいのならば、クラスタにふさわしくないと思われる個体をはじき出すという「いじめ」の儀式もまた、他のクラスタへのデモンストレーションを兼ねたネガティブな知恵になってしまいます。

「イジメはダメですよ」と諭す先生や親こそが誰よりもその仕組みを理解し、職員室や町内会で孤立することを恐れているのですから、そのセリフは一種の循環論法になってしまっています。

教育基本法10条は教育条件の整備を国民の意に即して行われるという原則を定め、血まみれになった国家主義教育との決別を宣言しています。

しかし教育行政が民主主義、すなわち数の論理をもって運営せざるを得ないのなら、こどもたちにいじめの愚かさを諭す言葉は親でも先生でも裁判官でもない、孤独になることを無意味に恐れない哲学者の口から聞かされる必要があります。