岩国住民投票の成立と多数決という部品

岩国の住民投票が成立 投票率50%超える(産経新聞)
「米海兵隊岩国基地の地元・山口県岩国市で12日、米海軍厚木基地(神奈川県)の空母艦載機受け入れの是非を問う住民投票が行われた。午後4時現在の投票率は50.53%で、市条例が定める50%以上の要件を満たし、成立した。即日開票される。」

岩国市住民投票条例の第12条をご覧下さい。

第12条(住民投票の成立要件等)

住民投票は、投票した者の総数が当該住民投票の投票資格者数の2分の1に満たないときは、成立しないものとする。この場合においては、開票作業その他の作業は行わない(以下略)。」 

岩国の住民投票条例によれば、それを開票するためには2分の1の投票数が要求されています。

そして多くの住民投票に関する条例が、その成立に過半数という投票率を要求しているようです。

これは憲法95条における、国が一地方に特別法を施す場合の住民投票が過半数の同意を要求している精神を反映したものだといえます。

ここで過半数とは、多数決を分類した場合の単純多数決のことであり、一方で3分の2とか4分の3とかの特別の多数によるものは制限多数決と呼ばれます。

単純多数決、すなわち過半数は、直接民主主義の性格をもっとも直裁的に表す採決方法です。

地方自治のことを俗に民主主義の小学校と呼びますが、その住民投票に過半数が採用されているのもより裸に近い民主主義ゆえともいえます。

そもそも多数決原理とは、三人以上の構成員からなる団体で、多数者の合意した意見に、見解を異にする他の構成員も拘束されるという原則をいいます。

多数決は、民主主義というオートバイを動かすエンジンにとって不可欠なクランクシャフトといえますが、一方でその欠点も古くから指摘されているところです。

すなわちあなたもわたしも少し考えればわかるように、多数決が社会にとっていつも絶対正解である保障などどこにもないからです。

しかしそうだとしても、たった一人の君主や軍部ではなく、わたしたち社会の構成員一人一人が世の中の行方を決める責任を負う民主主義社会においては、多数決という部品に不満はありつつも様々な場面で採用せざるをえません。

かつて尾高朝雄博士も、著書「法哲学概論」のなかで 「民主主義が数多い立場の中から一つを選び出す技術的な方法は多数決である。しかしもしも多数決が正しくないならば、その正しくない結果は、やがて実際の政治や立法の推移の上にあらわれるに相違ない。そこで国民は,改めて,かつての少数意見の方が正しかったことを知ることができる。そうして,かつての多数決の結果を修正し,政治と立法とを一歩でも正義と真理とに接近せしめて行くであろう。」と分析しています。

そのような考えで民主主義というオートバイにまたがる人にとっては、多数決という部品に対する諦観がないのです。

ジョン・スチュアート・ミルは「人間の理性が真に信頼に値するのは,それが誤りを犯さないためではなく、討議と経験でその誤りを是正する力をもっているからだ」としました。

多数決原理がそのポンコツ具合をたびたび指摘されながらも、今も民主主義の動力を行政に伝える仕組みとして現役なのは、わたしたちによる多数決がときにとんでもない間違いを生もうとも、やがて再び多数決がそれを修正していくからにほかなりません。

そしてどこにたどりつこうとも、その手段が多数決だったことが選択の言質をとるのです。

岩国に基地を招くかどうか、住民の意見を問うた住民投票は過半数の投票率を超え、岩国市住民投票条例第12条に則って開票が許されることになりました。

様々な思惑があることは当然なことですが、多数決という推進力の意義を認諾するのも、住民というライダーに求められる大切な乗車技術のひとつであることは間違いありません。