世田谷ゲーム脳講演会騒動とパーシグのジレンマ

ゲイムマンが世田谷のゲーム脳講演会に行ってきた(ゲイムマンのブログ IT Media +D Blog)
「・森教授を批判する人は全員、「ゲーム会社と何らかのつながりがある」ことになってるらしい。「サンデー毎日」で、京都大学の櫻井教授が、森教授の胡散臭さを指摘したことに対しても、「京大はゲーム会社から70億もらってますから、本当に言いたいことは言えないんでしょう」・「少年犯罪が増えてない」ことを指摘されたのに対し、森教授の回答は、「私は日本人です。日本のこどもたちが壊れていくのを黙って見過ごせますか?」・それ聞いた聴衆が拍手喝采。」

憲法の96条をご覧下さい。

第96条〔憲法改正の手続〕

「この憲法の改正は,各議院の総議員の3分の2以上の賛成で,国会が,これを発議し,国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には,特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において,その過半数の賛成を必要とする。(以下略)」

世田谷区がゲーム脳理論を掲げる森昭雄氏の講演をひらいたことがブログ上でちょっとした話題になっています。

ここでゲーム脳とは、『幼いころからテレビゲームに親しんでしまったため、ゲームをしていないときでも働きが鈍くなってしまった脳』という仮説を意味します。

ゲーム脳理論」擁護派と糾弾派は、「どちらが科学なのか?」を争っているとも言い換えられます。

ところで現代憲法も一つの社会科学理論であると言い換えることが許されるなら、「科学とは何か?」という定義のゆくえは、憲法改正を定める憲法96条の意味づけをずいぶんちがったものにするはずです。

ここでなにが科学なのかを検証するうえで非常に示唆的な文章を、ロバート・M・パーシグの名著、『禅とオートバイ修理技術』から引用しましょう。


「父さんの考えでは、現代人の知能が昔の人とくらべてそれほど優れているわけではないんだ。知能指数は大して違わない。賢さにかけては、インディアンも中世の人間も私たちとまったく同じさ。ただ考え方が全然違っているんだ。その情況がね。つまり現代人に原子や素粒子や光子や量子が存在するように、彼らには、それとまったく同じく幽霊が存在するんだ。その意味において、父さんは幽霊の存在を信じているんだよ。現代人の心のなかにも幽霊や霊魂が存在するんだ」

「どういうこと?」

「つまり、物理学や論理学の法則、それに数の体系や代数置換の原理……こういったものはすべて幽霊さ。信じているからこそ、現実に存在してるように思えるだけだ」

「俺には現実のように思えるけどね」とジョンが口をはさむ。

「ぼくには分からないよ」とクリスが言う。

だから私は続ける。「たとえば、引力や引力の法則がアイザック・ニュートン以前にも存在したと考えるのは、まあ私たちにとってはごく当然のことだ。なにしろ、引力が生じたのは十七世紀になってからだ、などと考えたら、それこそ気違いじみて聞こえるからね」

「確かにそうだ」

「だとすれば、この法則ができたのはいつなんだろうか?もともと存在していたものなんだろうか?」

ジョンは眉間にしわを寄せて、私の言わんとすることを測りかねている。

「つまり、引力の法則は、地球ができる以前にすでに存在していたことになる」と私は言う。

「太陽や星々が誕生する以前、いや原始宇宙が生成される以前にね」

「そのとおりだ」

「存在していたけれども、それ自体には、質量もエネルギーもなかった。人間は存在していなかったので、心のなかにはなかった。それに宇宙も生じていなかったので、当然そのなかにもなかった。結局どこにもなかったことになる。それでも引力の法則は存在していたと言うのかね?」

ジョンの確信が薄らいでゆく。

「たとえ存在していたとしても、私には、それがどうして非存在になってしまうのかまったく分からない。考えられることは、引力の法則は非存在に関するあらゆる試金石をすり抜けてしまったということだ。だからその引力の法則にはなかったはずの非存在の特質が一つとして考えられないのだ。また同時に、あったはずの存在の科学的特質もまったく考えられない。それにもかかわらず、引力の法則が存在していたと信じるのは、単なるこの世の"常識"なんだよ」

[出典:ロバート・M・パーシグの「禅とオートバイ修理技術」(めるくまーる社)]



ここでは科学とは、人間以前に存在する絶対真理のことなのか、あるいは科学とは人間が文化として利用する相対価値のことなのかという問題が提起されています(私的解釈)。

科学法則はある意味ただの記号の羅列であり、確かにある面でそれを妄想と呼ぶことも可能です。

しかしそれでもなお、その記号の羅列に対して「それは科学的である」という称号を与えられるのは、その記号自身が「拒絶も追認も受け入れる、反復可能な作用を記述したもの」であるからにほかなりません。(なぜ人はニセ科学を信じるのか マイクル・シャーマン 早川書房 より)

逆に言えば非科学的な物とは、追認や拒絶を許さない、肯定派の頭の中からだけ直接記述されることで存在を証明する観念ということになります。

UFOや幽霊、マイナスイオン血液型性格判断といった、信用する人達の頭の中からの記述でしか表現できないものは、科学と呼ぶべきではないのです。

もちろん一旦打ち立てられた科学も新しい事実確認により、いつの日にか否定される日がくるかもしれません。

しかしそのとき私たちの手元には膨大な量の追認と事実確認が残り、それによりそれまでよりも一回り大きなパラダイムを手に入れることができるのです。

その意味で科学は相対的であってもならず、また絶対的でもあってもならないといえます。

憲法96条の改正権とは、憲法制定権力と同質であり、しかも制憲権は万能であるから、憲法自身の枠には拘束されないのだとする無限解説も存在し、また逆に憲法改正権は憲法自身を超えられないとする限界説も存在します。

もし憲法という社会科学理論を「絶対真理の発見なのだ」と極端に定義してしまえば、憲法はそれ以上の成長を憲法自身によって拘束されることになり、憲法改正権議論における限界説に偏ることになりますが、逆に憲法理論とは「時代の主観的な道具、相対真理の創造なのだ」と極端にすれば、憲法制定権力という観念そのものも幻に消えてしまう危険を孕むことになるでしょう。

通説は、実定憲法には自然法(憲法以前の普遍の法)が上位し、実定法の効力はその自然法への適合・不適合によって決せられるため、たとえば国民主権のような自然法的原理に向かっては憲法改正権も制約されるのだと考えます(自然法論的限界説)。

つまり自然法論的限界説によれば、憲法は全体として相対的な道具の創造ではあるものの、その中には国民主権や人権尊重主義、平和主義、憲法改正国民投票制といった、すでに相対真理とは呼べないほどの現実による試行が尽くされた絶対真理を同時に孕んだ存在なのだということになりそうです(極私見)。

そしてその通りならば、憲法という社会科学法則を改正しようとする議論にあっては、特に動かすべきではない条項に関してわたしたちは冷静な視線を保つ必要があることになるでしょう。

ゲーム脳理論を提唱している方は、論文を学会誌に掲載せず、講演では質疑応答時間を長く取らないそうですが、一方的な主張や感情論では他人がそのデータを検証することを許し、また反証を許すという科学と呼ぶための不可欠な要素を欠くことになります。

特にゲーム脳理論というものに賛成するものでも反対するものでもありませんが、もし本当にゲームによって「日本のこどもたちが壊れていく」という事態を憂慮されているのなら、その理論が反復可能な作用を記述した物であることを証明するための拒絶と追認を受け入れるための材料提供は不可欠です。

現に憲法はこれからも科学に近いものであり続けるために、96条でそうした作業のための余地を残し、それが為に私たちが拠り所にしていくに足りるといえているのです(私見)。

 

 

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