横浜事件という思想弾圧と免訴という脱線

横浜事件 再審は免訴 有罪、無罪判断せず(東京新聞)
「松尾裁判長は「治安維持法は一九四五年に廃止され、被告らは大赦を受けた。免訴事由の存在により公訴権が消滅した場合は審理を進めることも有罪無罪の裁判をすることも許されない。免訴の判決が相当」と述べた。」

刑事訴訟法の337条をご覧下さい。

第337条  
「左の場合には、判決で免訴の言渡をしなければならない。
1 確定判決を経たとき。
2 犯罪後の法令により刑が廃止されたとき。
3 大赦があつたとき。
4 時効が完成したとき。」  

免訴とは、公訴が実体的訴訟条件を欠いてしまう場合に、これを不適法として訴訟を打ち切ってしまう裁判のことです。

実体的訴訟条件とは端的に337条1号、2号、3号、4号のことです。

日本の刑事訴訟において、実体的審判を求める権利、すなわち公訴権というものは、検察官その人にだけ行使が許されていますが、免訴は公訴権が337条各号の理由により失われてしまったとき、事の白黒を別にして司法のレールから外してしまうものです。

免訴の精神は旧刑事訴訟法まで、「犯罪を認むるを得るも、刑罰消滅原因により科刑権を認めえざるものなり」と解されていました(豊島直道 刑事訴訟新論)。

すなわちその頃まで免訴は、刑罰権だけが消滅して存在しないのだということを確認するという意味の実体裁判だと考えられていたのです。

しかしよく考えてみると、たとえば前に無罪判決があったときも337条1号をもって免訴判決がなされることになりますが、その場合をも「犯罪を認むるも刑罰権の消滅した」場合ということはできません。

そこで現在では免訴の性質を「公訴権の消滅などで形式的に裁判を打ち切るものである」とするのが、学説上の通説となっています。

そして免訴の判決は一事不再理、すなわち再び審理することを許さない効力(既判力)を有するといわれますが、その理論的根拠は、免訴判決が”公訴権の消滅ないし公訴権行使の利益不存在をもたらすような訴訟条件の欠缺を理由としてなされる形式裁判であるからなのだ”と説明されます。

判例も昭和23年5月26日、不敬罪に問われた人達が大赦によって免訴となったものの、改めて無罪を求めて上訴しようとした事件で、「裁判所が公訴につき、実体的審理をして、刑罰権の存否及び範囲を確定する権能をもつのは、検事の当該事件に対する具体的公訴権が発生し、かつ、存続することを要件とするのであって、

公訴権が消滅した場合、裁判所は、その事件につき、実体上の審理をすすめ、検事の公訴にかかる事実が果して真実に行われたかどうか、真実に行われたとして、その事実は犯罪を構成するかどうか、犯罪を構成するとせばいかなる刑罰を科すべきやを確定することはできなくなる。

・・・本件においても、既に大赦によって公訴権が消滅した以上、裁判所は前に述べたように、実体上の審理をすることはできなくなり、被告人に対し、免訴の判決をするのみである。従って、この場合、被告人の側においてもまた、訴訟の実体に関する理由を主張して、無罪の判決を求めることは許されないのである。」のだと判断しています。

つまり大赦によって公訴権が消滅してしまっているため、その問題についてもう一度裁判所が取り扱うことは許されないのだと形式裁判説を採用しているのです。

この大赦にかかわる免訴の解釈は、免訴の性質を暗に照らし出しています。

なぜならばそもそも大赦という制度は、その起源地フランスにおけるアムネスティ、すなわち「忘却」という言葉がその性質を最も端的に表現しているからです。

大赦は過去における特種の犯罪殊に政治犯等についてはこれによって水に流して忘れ去るという趣旨に他なりません(上記判例 真野毅裁判官意見より)。

横浜事件とは、かつての特別高等警察言論弾圧を目的に無実の人達を引っ捕らえていったものだという解釈が現在では社会的な定説となっています。

それにより4人が獄死、警察官は拷問を行ったことで有罪判決を受けています。

大赦を理由にした免訴判決は、検察官とともに何も水に流してもらう必要のない人達をも刑事訴訟のレールの外に押し出しています。

 

 

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