一夫多妻制を採用した家族と、人類の選択

一夫多妻男は元自衛隊幹部名乗り脅す(日刊スポーツ)
「 一夫多妻制のような集団生活に加わるよう専門学校生の女性(20)を脅した事件で、脅迫容疑で逮捕された無職渋谷博仁容疑者(57)が「私は自衛隊の元幹部で、周りにはスパイがいる」などと被害女性に話していたことが26日、警視庁捜査1課と東大和署の調べで分かった。」

民法の732条をご覧下さい。

第732条〔重婚禁止〕
「配偶者のある者は,重ねて婚姻をすることができない。」 

民法732条は重婚というものを禁止し、日本では一夫一婦制以外の婚姻を認めないことを宣言しています。

しかしなにもそれは人間社会の絶対原則ではなく、世界は広いもので一夫多妻制を堂々と認める国があることも確かです。

それでは何故我が国では一夫多妻制は認められていないのでしょうか。

法律を材料に少し考えてみます。

民法は一夫一婦の枠組みに入らない人間関係、たとえば本妻と別にいた愛人とご主人が法律行為でもめたとき、「そもそも公序良俗に反する」として関係者間の法律行為を無効にすることにしています(90条)。

公序良俗違反を反社会性で類型化すると、犯罪にかかわる行為、取締規定に反する行為、人倫に反する行為、射倖行為などが上げられます。

このうち一夫多妻、すなわち本妻の他に愛人契約をするような婚姻秩序・性道徳に反する契約を無効とするのが人倫に反する行為という類型です。(参照:内田貴 民法Ⅰ 東京大学出版会

つまり私達は一夫多妻制を見るとき「人倫に反する」ため、社会的妥当性を欠くと法律的に表現するのです。

ではそもそも、なぜ現代に生きる私達は一夫多妻制を人倫の反するものと感じて「納得できない」と感じるのでしょうか。

もともと一夫多妻制は哺乳類によくみられる形態で、人間とて、そのお仲間の一部に違いはありません。

人間と他の哺乳類との決定的違いとして、女性(メス)に発情期があるのかないのかという点があげられるのだとか。

発情期というものがない、すなわちいつでも男性を受け入れることが可能な人間の女性が、いったん世の中を強い権力構造が支配する男系社会に誕生したと仮定してみてください。

貴族や財閥が散在したそうした社会では、獲得した優越的地位や蓄積した財産を相続させるために、妻以外にも愛人をたくさんとりそろえて自身の遺伝子伝達のいろいろなバージョンを可能にする一夫多妻制が自然と容認されるようになります。

事実過去の日本でも、またあのモラルの厳しいキリスト教社会でも、建前はともかく事実上として有力者が妻とその他の愛人を囲うという社会的事実を認めてきた時代があったのだとか。

一夫一婦制の社会では、各家庭に「男子は家庭を守れ、女子は子供を産み育てよ」という平均化された職分が社会的圧力を伴って与えられます。

対して一夫多妻制の社会では、男子にはそれ相応の器を、女子には一人しかいない男子の寵愛を受けるため飽きの来ない真の才能を要求されることになります。

そして家庭を持つことにあぶれた男子の大きな割合が聖職者や僧侶、その他家族を養う必要のない身分となり、各地に非生産的な、すなわち文化的な成熟をもたらす要因となります。

動物行動学からいえば、非凡な才能を排出するためにはむしろ一夫多妻制のほうが適しているとさえいえるのだそうです。(以上参照:竹内久美子「賭博と国家と男と女」

しかしそれにもかかわらず現代の多くの文明国家の法律が婚姻の原則を一夫一婦制であると定めています。

思うにそれはきっと私達の歴史が一夫多妻制のような突出した部分をもつ社会の問題解決能力に見切りを付け、もっと見晴らしのいい整地された世の中を望んできたからなのかもしれません。

現に多くの国の憲法は、特定の人達に権力が集まる時に、それが濫用されることを警戒することをその主眼にしています(国民主権原理)。

現代の人間とは、少数の突出した才能(いわば点)の産出にその繁栄の鍵を託すことよりも、一夫一婦制によって生み出されるたくさんの平均化した人間のつながり(いわば面)によって、生存を阻む諸問題を解決していこうという選択をした生物の一群なのではないでしょうか(私見)。

そうだとすると面による解決を採択をしてきた人間社会で、逆行するような一夫多妻制をとる集団をみつけたとき、私達の胸の中に芽生える「社会的に不相当である」という感覚は、案外無意識下の歴史的記憶が呼びかけている可能性も考えられます。

法律が個人の尊厳に覚醒したことは、アイロニカルにいえば偉大なる凡庸の量産という生物学的安全装置を私達が受容したのだといいかえられるでしょう。

公序良俗、すなわち法学上で「社会的妥当性」と呼ばれる時代の判断基準が、どんどん「旦那の回りに愛人が数人」といった状況を社会に許さなくなってきているのは、人間という種族全体が生存をかけて集合意識下でなした決断によるものなのかもしれない、などと思ったりするのです。