和田アキ子さんがプレーヤーから与えられたものと、評論家から与えられたもの

和田アキ子、脱ご意見番!?本業にハル(Yahoo)

「音楽評論家の富澤一誠氏は、近年のアッコを「楽曲に恵まれず、歌い方が古い」と指摘した上で、持ち歌がカバーされることについては、「話題性があり、キャラが強いから若者とのノリもいい。もともとアレンジしやすい曲も多い。キャラが立っているだけあり、いじりがいもあるでしょう」と分析する。」

著作権法の91条をご覧下さい。

第91条(録音権及び録画権)

「実演家は、その実演を録音し、又は録画する権利を専有する。」 

音楽を作詞・作曲した人が著作権・翻案権を擁するように、それを実演した歌手も様々な権利を擁します。

これを歌手の「著作隣接権」と呼びます。

自らの感性を問うためさまざまな訓練を受けて成果を得る歌手や製作者、放送事業者などの権利を保護するために、著作隣接権は91条で彼らの録音・録画権を、またその他の条文で放送権、貸与権、私的録音権、送信可能権などを保護しています。

ある楽曲を自分の感性で再編曲し直したいと思うとき、そのプレーヤーは作詞・作曲家が著作権の一支分権として擁する翻案権(アレンジに関する権利)を意識しなければならないことはもちろんです。

しかしその他にも、楽曲を実演した歌手には当然に敬意をもって十分意識しなければならないのだと、著作権法第四章、著作隣接権に林立する条文群は語っています。
 
ただしそれらの交渉は礼を欠かずに行えば、音楽という芸術品を愛するプレーヤー同士なら障害なく進むはずです。

一般リスナーに認知されているその歌手のジャンルやイメージを超えて、彼らの残した軌跡(レコード、CD等)そのものが尊敬に値するものだと後世のプレーヤーが感銘を受けたとき、製作する音楽こそ楽曲カバーやトリビュートアルバムであり、そのことはつまり交渉に入る前に高い次元の意識の交差があったことを意味するからです。

それは本記事内における、音楽評論家の残した表層的な物の見方の次元より、遙かに高い位置で行われるもので、あらゆる属性を捨象して音だけを見ることができる人だけが見つけられる、過去の楽曲、過去の歌唱の中に光る宝石のようなものです。

和田アキ子さんが本当のブルース(アフリカで狩られ、アメリカ南部で、強制的に奴隷労働に着かされた人達の鎮魂歌)を歌うとき、私も持っているロバート・ジョンソンら当時のプレーヤーが真に表現しよとしていたものと同じ輝きを聴くことができます。

またそれだからこそ、洋楽のルーツをよく知る現代のプレーヤーの耳にも届くに違い有りません。

それは本来、「ノリがよく」「キャラが立っているからいじりがいがある」などといった芸能界的な発想では届かない場所にある仕事のような気がします。

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