釈迦の化身と呼ばれる少年とやわらかい言葉

瞑想続ける「釈迦の化身」少年の謎究明へ=ネパール当局(Yahoo)
「ここ数週間、釈迦の化身だと信じられているその少年ラム・バハドゥール・バムジョン君を一目見ようとネパールやインド近隣から少なくとも10万人の信者がネパールやインド近隣からネパール南東部バラの密林に集まっている。少年の仲間によると、少年は6カ月間、食べ物や飲み物を一切口にせず瞑想を続けているという。」

騒音規制法の第28条をご覧下さい。

第28条(深夜騒音等の規制)

「飲食店営業等に係る深夜における騒音、拡声機を使用する放送に係る騒音等の規制については、地方公共団体が、住民の生活環境を保全するため必要があると認めるときは、当該地域の自然的、社会的条件に応じて、営業時間を制限すること等により必要な措置を講ずるようにしなければならない。」 

あなたもわたしも起きている間中、頭の中の会話を辞めることはなかなかできません。

だれかと会話中であっても、一方で別のことを考えていたりします。

あまりにも混乱した脳内の会話に無意識でうんざりしているわたしたちは、少しでもこれをなだめるべく携帯電話に夢中になったり、あるいは一心不乱にパチンコやゲームに打ち込んだりして気を紛らわしています。

つかの間の”統一された静かな自分”なら、お金を払った分だけ手に入れることはできるというわけです。

一方で、瞑想という一つの方法もあります。

瞑想は本来宗教などとは関係がなく、要は音楽でもかけて一定時間黙って座っていることで、頭の中に会話のない統一された自分を取り戻そうという方法論です。

わたしたちの身には日本語が仕組み上備えている価値観や、互いを共縛りにする耳障りのいいキレイゴトや、財布を開かせる景気のいい商品のキャッチコピーがあたかも自分の考えのように居座ってあちこちに突き刺さっています。

自我は他でもなく言葉で組み上がっていますので、生きていくという取引の中でもたらされたさまざまな言葉の組み合わせがわたしたちに無理なテンションをかけることがあっても、一概にわたしたち自身の責任とばかりはいえません。

受け入れたくなくとも受け入れざるを得ない種類の言葉の洪水の中を、毎日歩いているのです。

幸い体力的な部分では、夜も深くなれば騒音規制法の28条が飲食店などが騒音を出すことを禁じてくれています。

これは憲法25条が保障する生存権の部分的現出ですが(私見)、法の力は睡眠という肉体的な復元のための時間を確保してくれているのです。

一方、精神的な部分、つまり頭の中の雑音には、さすがに法の手も届きません。

だからといって私のような信仰のない人間に、ネパールの少年のような寝食を忘れた半年以上の瞑想ができるとはとても思えませんが、自分の言葉で自分がやがて混乱してしまわないよう対処は必要です。

ファミレスで古い友達にでも会って、やわらかい言葉を取り戻す時間は時々あっていいかもしれません。



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