21 VS 13

小1女児殺人:過熱取材対策で報道申し合わせ(毎日新聞)
広島市で小1女児が段ボール箱に入れて放置され、殺害された事件で、広島県内に取材拠点を置く新聞社・通信社・放送局計16社でつくる県編集責任者会は23日、「取材・報道の使命の重要さを認識するとともに、被害者家族をはじめ周辺住民、学校など関係者の心情やプライバシー、人権に配慮し、節度をもって取材・報道に当たる」ことを申し合わせた。事件の被害者宅周辺などでメディアスクラム(集団的過熱取材)が起きるのを、未然に防ぐための対策。」

憲法の21条1項をご覧下さい。

第21条〔集会・結社・表現の自由,検閲の禁止,通信の秘密〕

「集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。(以下略)」 

報道というものは単に事実を知らせるもので、特定の思想を表明するものではありませんが、憲法が思想や意見の表明を保障する「表現の自由」によってやはり保障されていると最高裁も考えています。

なぜならば報道という作業のなかにも、編集という知的作業がありますし、さらに報道は国民の「知る権利」に奉仕するという重要な効果をもつためです(最高裁 昭和44年11月26日決定)。

さらに報道の自由を「表現の自由」で保障する派生原理として、取材の自由という権利も憲法21条1項、「表現の自由」は加護するものと考えられています。

なぜならば取材の自由がなければ報道の自由も結局ないに等しいからです。

悲惨な事件が起こったとき、TV局や新聞社の取材班は我先にと駆けつけ、犯罪被害者の家族達に群がりますが、彼らの免罪符には「21」という数字が誇らしげにプリントされているというわけです。

しかし問題はその報道機関の保有する憲法上の権利と、被取材者側のもつプライバシー権が衝突する場面です。

そこでそもそも守られるべきわたしたちのプライバシー権とはなにかをはっきりさせておかなければなりませんが、判例上は「私生活をみだりに公開されない法的保障」こそプライバシーなのだと捉えられています(東京地裁 昭和39年9月28日判決に同旨)。

プライバシーという判例上は比較的新しい観念により、私達には普段から一人にしておいてもらう権利をもともと持ち、いわんや家族が思いも寄らない残酷な犯罪被害にあって心が脆くなっている時には、出歯亀根性の報道機関によって傷口を無用に広げられない権利を本来憲法上保障されていると言えるのです。

プライバシー権は普通、人格権と呼ばれる権利の一つに含まれると考えられ、その根拠条文は憲法13条にあると考えられています。

すなわち報道機関がその腕に「21」という腕章を巻いているのと同じく、犯罪被害者になったとき、わたしたちの玄関先には「13」という札が下げられているはずなのです。

しかし有名な松本サリン事件における河野義行さんへの集中誤報に見ても明らかなように、結果的に徒党を組んで現れることになる報道機関の数と勢いとの前には、わたしたちが玄関先のぶら下げる「13」などという札は、紙の如く吹き飛ばされるのが現在の現実です。

そしてメディアにスクラムを組ませ、一刻も早くよりスキャンダラスな報道をさせようと勢いづかせる原動力は当然それがより大きな経済的利益を報道機関にもたらすからに違い在りません。

そしてなにより、よりスキャンダラスな報道をした機関により大きな経済的利益を与えているのは、誰在ろうその新聞や雑誌を争って買おうとする、他でもない”未来の報道被害に怯えるわたしたち自身”によってであるのです。

自らの番が回ってくる前にそのメビウスの輪をほどいておくには、「犯罪被害者の家族であることを我が身に置いて考える」という想像心をほとんどの人が無理なく手に入れる、社会の晩秋を待たなければならないのかも知れません。
 


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