認知症という呼称に知る社会成熟の歴史

認知症患者の脳機能が改善 アザラシ型ロボと触れ合い(河北新報)
「アザラシ型ロボット「パロ」と触れ合うことで、認知症の高齢者の脳機能に改善効果があったと、産業技術総合研究所が16日、発表した。」

民法の858条をご覧下さい。

第858条(成年被後見人の意思の尊重及び身上の配慮)

成年後見人は、成年被後見人の生活、療養看護及び財産の管理に関する事務を行うに当たっては、成年被後見人の意思を尊重し、かつ、その心身の状態及び生活の状況に配慮しなければならない。 」

手元にある「アルツハイマー病・認知症(痴呆症) 吉岡充 主婦の友社」という本の中に、認知症の呼び名の歴史についてとても興味深い記述があるので以下引用させていただきます。

その昔、アイヌ民族は、認知症になった人を「神様の友達」と呼び、困った行動をしてもしかたがないのだと受け入れたのだそうです。

しかし、明治以後、西洋医学が盛んに採り入れられるようになると、認知症は治療回復の困難性から一転、老耄狂、老耄痴狂、老耄性痴呆と名付けられ、終末期には失神性痴獣とまで呼ばれたのだとか。

獣呼ばわりです。

つまりそれまで神の友達と自然に受け入れていた認知機能の低下という症状に対して、西洋医学の導入は、ただ患者の役割だけを与えて厄介者にしてきた歴史があったのだそうです。

そこには優性思想に支配されようとしていた、当時のただ未熟な社会意識があったとしかいいようがありません。

現在では痴呆症という呼称もつい昨年末に認知症と呼ばれることに改善されました。

ちなみに痴呆という言葉は、手元にある古い国語事典によればそのままで「バカ」を表現してしまいます。

これでは実際に認知機能が低下したお年寄り、あるいは若年認知症の方々から感情的な反発があって当然です。

たとえ認知機能が低下しようとも、感情機能は低下することがないからです。

感情機能が存続しているとは、その症状をもとに不当に扱われれば理由は理解できなくとも、屈辱感だけはずっと胸に残ってしまうということです。

私やあなたにも年老いたときにやってくるかも知れない認知機能の低下という世界に対して、私たち自身よりセンシティブな対応が当然用意されていることを望んでいます。

呼称も徐々に人間的になっていったように、法制度も徐々に成熟していき、現在では民法成年後見制度が、認知能力が低下した現在の人達、また将来の私たちを保護しようとしてくれています。

そのひとつとして858条も、たとえ看護する人であろうとも、認知能力の下がった人の誇りを傷つけるような扱いをしてはならないことを定めています。

これからも法や社会の制度は数々の失敗を糧にしながら、より成熟していくことでしょう。

いざ自分がその病に足首を掴まれたとき、自分としてはどういった制度や法が準備されていたいのかを我が事として現実的に描ければ、私たちは道を間違えません。

その能力は古来、デリカシーと呼ばれています。

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