苗も耕作者を観察する

東京12区、八代英太氏が無所属で出馬表明(読売新聞)
八代英太氏が29日午前の記者会見で、東京12区不出馬の方針を撤回した理由に挙げたのは、一時は「比例選擁立」をにおわせるなど、迷走した小泉首相や党執行部への怒りだった。八代英太氏は「『郵政民営化の次は福祉だ。あなたは本当に日本の福祉を支えてきた。あなたの出番だ』と激励された。『おれを信じてくれ』と4回も励まされた」と、首相との水面下のやり取りもぶちまけた。」

憲法15条の1項をご覧下さい。

第15条〔公務員の選定罷免権〕

「公務員を選定し,及びこれを罷免することは,国民固有の権利である。」

誰にも国民として立候補の自由が与えられています。

与えられているといっても、憲法に「立候補の自由」がはっきり書いてあるわけではありません。

しかし15条の1項に「パブリック・サーバントを選択・解雇する権利は国民にしかない」と書いてある文章を裏読みしてこれを保障します (判例・通説)。

つまりいろいろな人が自由に立候補できるからこそ、私たちにしかない「パブリック・サーバントを選択・解雇する権利」が実効化するのだと解釈することで、選挙権と被選挙権とを一体視する理論です。

実は昭和43年に、組合の要請を振り切って立候補してしまった組合員と、所属組合の衝突を裁いた三井美唄炭鉱労組事件と呼ばれる争いがありました。

その判例は『被選挙権を有し、選挙に立候補しようとする者がその立候補について不当に制約を受けるようなことがあれば、そのことは、ひいては、選挙人の自由な意思の表明を阻害することとなり、自由かつ公正な選挙の本旨に反することとならざるを得ない。』

『したがって、立候補の自由は、選挙権の自由な行使と表裏の関係にあり、自由かつ公正な選挙を維持するうえで、きわめて重要である。』

『このような見地からいえば、憲法15条1項には、被選挙権者、特にその立候補の自由について、直接には規定していないが、これもまた、同条同項の保障する重要な基本的人権の一つと解すべきである』と明言しています。

当該議員はたしか立候補を一旦断念したとき、「自公連立の妨げになるので」という理由を発表されたはずですが、今度は比例名簿に記載されなかったことで「約束を破られたので」やはり今回無所属で結局東京12区に出馬されることにしたそうです。

もし候補者と投票者の関係が商取引ならば、「それは御社の社内事情であって弊社にはなんの関わりもないのでは?」といいたくなるようなお話ですが、最初に当該議員が国民に提示した立候補取りやめ理由は、間接的には無意味化することになります。

立候補する人の自由はともかく、候補が自らの意思に反して出馬を取りやめるのは、国民側からの視点を忘れなければ憲法15条1項で定められたパブリック・サーバントを選択する幅を一旦狭めらたことになりますので、わたしたちは無意識に候補者の出馬取りやめ理由にはいちいち耳を傾けて、次回のためにその人となりを判断する材料にしています。

国民とは、国会議員にならんとする人たちからみれば畑の一苗(票田)にしか見えないかもしれませんが、わたしたち苗のほうも畑にやってくる耕作者の言動には物言えぬ苗ならばこそ意外なほど十分注意しているのです。

言動を一貫させようと努める態度のことを、私たち苗は清廉と呼んでいます。

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