哲学:得んとする態度の継続

朋ちゃん共演相手に仰天告白「愛してる」(Yahoo)
華原朋美(31)のミュージカル初挑戦作品「赤毛のアン」の東京公演が24日、東京・中野の「なかのZEROホール」で開幕した。体全体を使っての熱演で心身ともにホットな朋ちゃんは、会見で相手役の舞台俳優・泉見洋平(33)に「すごく愛してるんだよ!」と仰天告白。泉見も「華原さんは素晴らしい」と応え、物語同様の恋に発展するか注目だ。」

刑法の39条第1項をご覧下さい。

第39条(心神喪失及び心神耗弱)

心神喪失者の行為は,罰しない。」

より確かな自分、知恵、思考体系を探し求め、姿を追い求める道のことを、古代ギリシアではfilosofivaと呼びました。

それは哲学の語源であり、解体すれば永遠に続く知への求愛という意味です(私的解釈)。

あなたやわたしがそれぞれの内側に独自の知をつかんでいなければ考えない葦、すなわち内側からの確信を張り出すことができない葦として、それが事切れるまで風に凪ぐしかなくなります。

しかしわたしたちは未だその究極の答えをつかんでいませんし、正解は時代の空気とともにいつも流動的です。

法律をどのような形にするかは、常に哲学の一大命題でしたが、そのもっとも拮抗した法哲学上の争いは、刑法における古典学派と近代学派のの争いに見ることが出来ます。

極端にいえば前者は人間の自由意思を信仰し、後者は狭義の社会科学を信仰しますが、いずれもわたしたち葦に確信をもたせんとする学術闘争であり、風に凪ぐことのない社会をつくろうとする誠実な折衝です。

しかしいずれかの説を極端にとることにより、心神喪失者によって「行為」が現象としてあったとき、わたしたちはそれを罰するべきなのか、罰せざるべきなのか結論が分かれてしまいます。

論争は克服されなければならず、そのアイディアのひとつとしてウェルツェルが用意したのが目的的行為論であり、刑法における”行為”の意味を、目的をもったものに限定し、極論から距離をとることに成功しています。

現在では39条1項の”行為”が罰せられないのは人格の主体的現実化としての身体の動静がないからだと解釈する人格的行為論が通説的ではあります。

華原朋美さんが心の深い傷から立ち直り、魅力的な新しいパートナーを求めることも、彼女を彼女たらしめんとする重要な精神活動の一環です。

そして彼女が衆目の前で堂々と求愛したように、”得る事”よりも”得んとする態度を継続すること”にこそ真の価値があることは、恋愛にあっても、法哲学という「知への求愛」にあっても同じです。

恋の一番の楽しみが相手の笑顔を自分がたくさん作ることであるように、たとえあなたやわたしが確信らしき法哲学を得る日がきたとしても、常に社会の顔をのぞき込みながら検証しつづける態度こそ、わたしたちを考える葦でありつづけさせてくれるはずです。
 

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