「「いつまで動かないんだ」「ちゃんと説明しろ」。人であふれかえった舞浜駅では怒声が飛び交い、バス停には長蛇の列ができた。携帯電話の電池が切れた人たちが公衆電話の前に長い列を作り、運転再開を待ちくたびれた客同士が怒鳴りあう姿もあった。 」
夢の国、ディズニーランドにおけるいわば憲法前文、ウォルト・ディズニーのディズニーランド開園式(1955年 7月 17日)式辞をご覧下さい。
Walt Disney's Dedication of Disneyland July 17, 1955 WELCOME TO DISNEYLAND MAGIC. (私訳) ようこそ、ディズニーランドの魔法に。 「この幸せの地に集うすべての人へ: ようこそ。ディズニーランドは過ぎし日々の記憶を取り戻さんとする大人や、来たりし日への挑戦と確信を持たんとする若者のための場所です。ディズニーランドはアメリカを築き上げた、理想や夢、そして困難だった全ての出来事に捧げられています。そのことが世界中の人の喜びやインスピレーションの源になることを願って。」 |
ディズニーランドでは働く人がキャスト、お客さんがゲストと呼ばれるのだそうです。
そこでは清掃担当者といえども、ディズニーランドという夢を支えるキャラクターの一人であり、舞浜の清潔なアスファルトに包まれた園内全てを貫く世界観の維持には一分の隙もないかのようです。
そしてそのことが、そこを訪れた現実に疲れた大人の、とくに女性達の疲れを癒し、「いつまでも少女時代の世界観を持ち続けてもいいんだよ」と丸一日かけて話しかけてくれるのでしょう(多分)。
ウォルト・ディズニーも開園式で述べたように、アメリカという何もなかった荒野に約200年間でウォール街やブロードウェイを作りあげるまでには凄まじい困難が続きました。
開墾するためイギリスから渡ってきた開拓民の家族に要求されたのは、困難に泣き叫ぶリアクション(反応)ではなく、いつまでも掘り返すことのできない切り株を前にしても、理想や希望の像を語り合うことをやめないクリエイション(創造)でした。
夢の国で支払った金額分の満足をお腹一杯にした家族連れは舞浜で何時間も座り込むハメになり、さぞつらかったことでしょう。
しかしその駅舎の中にたくさんいたはずの夏休みの子供達のために、反応と創造の二叉路の手前で大人にだけは選択肢が与えられていたのです。
感情と自分を分離して、子供達に何を見せるべきかを「考える」という選択肢です。