生協の白石さんと生命の意義

「生協の白石さん」(Moura)

「東京都の西、多摩地区にキャンパスを持つ東京農工大学。明治7年以来の伝統を持つこの大学が、インターネットの世界で熱い視線を集めている。いや正確にいうと注目を集めているのはこの大学の生協、それもこの生協の職員である「白石さん」という人と、学生の皆様とのやりとりが、今ネットワークの世界でとんでもないアクセスを集めているのだ。」

民法の91条をご覧下さい。

第91条

「法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関せざる規定に異なりたる意思を表示したるときは其意思に従う」 

民法91条は、任意規定に優越する法律行為自由の原則を認めることで、私的自治の尊重を表現しているといわれます。

私的自治の原則とは、個人が権利義務関係に縛られるのは、その個人の意思による場合に限られるとする私法の原則です。

東京農工大学において、ユーモアというパッケージの下に学生さんと生協職員さんが珍しい形のコミュニケーションを成立させているようです。

この意思疎通における、「意思」というものは民法上、なんらかの表示行為をする際の原因となった心理のことをいうと定義できます。

民法において表示行為とは、売るとか買うという表明のことです。)

私法において自分の内心を十分に表現できる能力のことを意思能力とよび、民法上は、心神喪失した人や乳幼児には意思能力がないと判断します。

しかしこれがないからといって生物学的な意思そのものがないことにはなりません。

その場合表現はできなくとも、たとえば事故に巻き込まれて外見上意識が混濁していようとも、意思と呼ばれる物の本質は失われていない可能性もあります。

脳と意思は同義ではないからです。

かつて脳神経外科医のワイルダーペンフィールドも「脳が心そのものなのではなく、心が脳という臓器を動かしているのだ」と結論づけています。

脳と意思が同義でないとすれば、たとえ脳が息絶えても、意思そのものは別の臓器上で存在しうる可能性も否定しきれません。

実際、体細胞のひとつひとつが活動すること自体にも、見方によってはひとつの意思をみることさえ可能です。

またたとえば手で触った物は一旦脳が判断するとばかりはいえず、時には「手」そのものが判断しているのだといわれます。

脳は計算機でいえば中央演算装置にあたりそうですが、問題は、どこにどうやって存在する、いったい何が、その装置に対して、毎日起こるさまざまな問題の演算をさせているのかという点です。

こうしてみると民法では実にさらっと定義されている意思というもの、実は正体をつきとめるにはまだまだ時間がかかりそうです。

民法91条も、意思が表明されてこそ活用できますので、表明されていない意思を法律で保護できる日も未だ遠そうです。

しかし私たちは意思の正体を未だ突き止めていなくとも、毎日約2700人の新しい意思が生まれてくることの意義のひとつについては、はっきりと腑に落ちています。

世の中に熱をもたらすということです。

生協の質問箱に入れた質問用紙に対して、通り一遍の回答でない、ユーモラスな声が返ってくるとき、農工大の学生さんは質問箱の向こうで息づく確かな一個の意思を見るでしょう。

そして生協の白石さんという一個の意思は、質問とその回答を読んだ他の意思たちに対して熱を伝達することで、世の中に対するやわらかな確信を与えていると見ることができます。
 

法理メール?