ペンギンさんの同性ペアと生き方の果実

<ペンギン>同性ペアが相次ぐ 北海道登別市の水族館

憲法14条1項をご覧下さい。

第14条

「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。(以下略)」

ペンギンさんから「こんな極東の島まで勝手に連れてきた上に、誰をパートナーに選ぶかまでイチイチ口を挟んで、あたかも同性愛が社会の病のような暗喩として用いるとは」という嘆きのメールが届きました。

そこで本誌では人の同性同士の愛が、法律的にどう保護されているのか、あるいはされていないのかを憲法の分野で検討してみます。

現在私たちの使っている憲法では、14条で国家が国民を不合理に差別してはならないと決めています。

これを法の下の平等と呼びます。

戦争に負けるまで、私たちの島の上では人の大きさは異なっていました。

もっとも大きな人が天皇、次に大きな人が貴族、あるいは軍部、その次にやっと人らしき大きさで歩いていたのが平民の男性、そしてその後ろを人よりも小さな姿であるいていたのが平民の女性でした。

(それは慣習でなく、憲法で間接的に表現されていました。)

法の下の平等GHQの肝入りで定められた背景には、地上を戦火に巻き込んだ第二次世界大戦が、権力者とその周辺が中央で強権を行使し、国民を一方的に支配した独裁制に原因があったとの戦勝国側の判断があったものと思われます(私見)。

私たちの国では現在の憲法14条をもって、この島に立つ人たちの大きさはみな同じとなり、政治の組織化や運営は、私たちが選挙を通じて間接的に決定める民主制をとっています。

そしてその基盤として、14条は、二度と人の大きさを区別してはならないとし、その判断の基準の例として、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」などを列挙しているのです。

ところで私たちの裁判所で、男性が男性を、女性が女性を愛している人の大きさも、この14条1項で同じとされるのかに結論が出たのは平成9年9月16日のことでした。

その通称「東京都青年の家事件」は、青年の家に宿泊しようとした同性愛のグループが都の施設である青年の家から差別的取り扱いを受けたことを争った事件です。

東京高裁は都教育委員会の宿泊不承認処分を「青年の家が青少年の教育施設であることを考慮しても、同性愛者の利用権を不当に制限し、結果的、実質的に不当な差別的取扱いをした」と結論づけました。

都という地方公共団体の差別的意識の認定と、それが憲法14条の精神、背景で判断して誤っていたことが認定されたわけです。

つまり私たちの島では、同性を愛する人の立場も、憲法14条1項の立法趣旨により、不当に極小に扱われないことになっているといえるでしょう。

同性を愛する人たちはそのことにむしろプライドをもっているでしょうし、そうでなければ自分を一生責め続けて生きるハメになります。

そしていったん憲法で同じ島の上に立つ人たちが皆堂々と歩ける同じ大きさにすると決めた以上、だれかが生き方により社会から小さく扱われ、自分を責めて生きなければならないような思想の復古は許されませんし、それを許す先には差別した私たちがまたただの砲弾にされて砲台の上に乗せられる時代への道が続いています。

同性を愛する人たちの美的感覚が異性を愛する人たちの感覚より優れているのは、彼らの生来の資質というより、むしろ安全な感覚より自分自身の感覚を優先する生き方を選択したことによる果実のように感じます。

同時に安全な感覚を優先する多数の人たちも、少数派の人たちの道を必要以上に険しくしないルールを守ることで、永遠の人間らしい暮らしという果実を収穫しつづけられるのです。
 

 
法理メール?