赤ちゃんの取り違えにかけられたか細い梯子

47歳男性 産院で取り違え認定 東京地裁

「実の子を捜すため、誕生日が近い男性の氏名と住所を社会保険庁に照会するよう求めた申し立ては「個人情報であり、新たな権利侵害の恐れがある。手を尽くしたい心情は察して余りあるが、司法権の限界を超える」と退けた。」

裁判所法の3条1項をご覧下さい。

第3条(裁判所の権限)

「裁判所は、日本国憲法に特別の定のある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。」

裁判所のお仕事の範囲は裁判所法3条1項で基本的に”一切の法律上の争訟”の中に限定されています。

これを司法権といいます。

司法権とは平たく言えば法律を適用して問題解決を図る裁判所のなわばりのことです。

その他に法律をつくる国会のなわばりを立法権と呼び、その他のすべての余地における国家のなわばりを行政権と呼びます。

司法と立法をのぞいた全ての権力を行政権と呼ぶのは、歴史上全ての権力を握っていた国王から、法を作る権利と、争いを法律で裁定する権利が順に外に飛び出したことから来ています。

司法権の範囲に含まれるためには,法律上の争訟性が要求されますが、ここで法律上の争訟とは、観念的な争いでなく、申し立てる自分達についての困りごとであり、法律を持ち出せば最終的に解決できる性質の事件のことです。
 
逆にこれらの性質を持たない事件、たとえば宗教上のイコンが本当に宗教的ご利益があるものなのかというような争いを裁判所に持ち込んでも、それは法律で解決ができる問題であるはずがないので「法律上の争訟ではない」として裁判所は仕事の範囲に入れてくれません。

また仮に「法律上の争訟」の要件を満たしたとしても、裁判所の司法権行使には限界があると考えられています。

たとえば一つの規制目的のために国会がどんな内容の法律をつくるかは憲法の範囲内において国会の自由裁量に任せられていると考えられており、裁判所は法の出来、不出来に基本的に口出しすることはありません。

これを裁量行為論と呼びます。

しかし今あなたがこれを読んで「じゃなんでも国会で決めたとおりってこと?」とちょっと違和感を覚えたとおり、裁量行為論が太りすぎれば裁判所が憲法を基準に誤った法律にかける非常ブレーキ、違憲審査制はスカスカになってしまいます。

このため、裁量行為論の取り扱いにはよくよく注意が必要です。

今回のお気の毒というにはあまりにもお気の毒な男性の事件では、別人だと気づかぬまま長年の人間関係を築いてしまっているもう一人の人の個人情報を開示するのかしないのか、当人にそれを知らせるのかは社会保険庁、すなわち行政の仕事のなわばりです。

裁判所が、産院で取り違えられた男性のもっともな要求を退けてしまったのは、裁量行為論に配慮した結果であり、それが「司法権の限界」という立て看板の意味です。

いうまでもなく権力を王から取り上げ分散させたのは、国があらぬ方向に向かわぬよう、その仕組みを非効率的にしたものであり、裁量行為論の本質もその三権分立システムの機能を堅持させるところにあります(私見)。

しかしその堀は、男性の悲劇を解決するにはあまりに深すぎました。

問題の構造さえわかれば、あなたには都知事(行政)による、男性への協力に前向きなコメントが、行政から三権分立の堀に掛けられたか細いはしごであることが見えてくるはずです。
 

 
法理メール?