少年の決闘と多重起動する60億の世界

少年12人が『タイマン』決闘などの疑いで逮捕(中日新聞)

「生徒らは「K-1が好きで、タイマンにあこがれていた。お互い承知しての決闘で、なぜ捕まるのか分からない」などと供述しているという。」

決闘罪ニ関スル件という法律の第3条をご覧下さい。

3条〔決闘殺傷〕

「決闘に依りて人を殺傷したる者は刑法の各本条に照して処断す。」
 

刑法配下にある「決闘罪に関する件」3条には、たとえ怪我をした相手が決闘に同意していたとしても、刑法の殺人罪や傷害罪を成立させるのになんのいいわけにもならない(違法性を阻却しない)ということが書かれています。

少年達の素朴な疑問に答えるために、なぜ全員が同意していたのに罪になるのかを、少々観念的になりますがいっしょに考えてみましょう。

そもそも一人の人の生命とは、国家から最高の価値観をもってもちいられるべき絶対価値であることには間違いがありません。

おっと、これは決してきれい事でも能書きでもありませんよ。

よくよく考えてみてください。

世界とはニュースで繰り返される国会の紛糾のことではありません。

世界とはあなたが雑誌であこがれるセレブの住む豪邸のことでもありません。

世界とは今そこで、そうやって指先にパソコンの固さを感じ、そしてモニターを見つめている目の奥で凝りを感じているあなた自身の中で、毎日再編される”一日の意味”そのものを指します。

それが間違いなくあなたにとっての”世界”であることは、あなたの胸の中でざわめいた今の感情に聞いてみればわかるはずです。

それ以外に”厳然たる世界”というようなものが、日銀の地下金庫に保管されているわけではありません。

一個の生命をドブに捨てるように終わらせるのは、一個の世界をドブに捨てることを意味しますので、国家はこれにたいして考え得る最高の待遇を、他人の迷惑にならない範囲内で約束しています。

これが憲法13条、「個人の尊厳」といわれる思想の正体です(極私見)。

対して国家とは、各人の”世界”が一億五千万個集まり、なんとかその総意をまとめて国を運営していこうとして構成され、新陳代謝を繰り返してきた機構です。

このため、国家の一構成要素である生命は、保護の真の客体であると同時に、保護を為す替えのない主体でもあることになります。

(保護が機械によってなされれば、あなたは途端に”世界”ではなくなります。それが何故なのかは考えてみてください。)

国家はその生成経緯としても、成立根拠としても、一個の”世界”を安易に失うわけにはいかないのです。

これが国家が生命の自己放棄を許さない理由です。

決闘において相手の同意がその違法性を阻却しないのは、生命は確かにあなたのものですが、同時に他の”世界”を成立させるための重要な要素であることの刑法的解答なのです(私見)。

残念ながら決闘罪は、あなたが安易に生命を放棄することを許してくれません。

しかしその条文は同時に、あなたが他人の世界の部品ではないことを裏書きしています。
 
 

 
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