「答えなければ切る」と教師は言った

ナイフ教諭:質問に「答えなければ切る」 鹿児島の中学(毎日新聞)

憲法の26条をご覧ください。

第26条〔教育を受ける権利,教育を受けさせる義務,義務教育の無償〕

「すべて国民は,法律の定めるところにより,その能力に応じて,ひとしく教育を受ける権利を有する。
 すべて国民は,法律の定めるところにより,その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は,これを無償とする。」 

私たちには憲法の26条という硬質の条文を用いて教育を受ける権利が保障されています。

教師はカッターナイフという聞いたことがない個性的な方法で、その教育の自由を謳歌したようですが、これとは比べられない精神の高みをもって教育の自由の本旨を法廷で争ってくれた学者がかつていました。

当時の東京教育大学の日本史教室教官、家永三郎先生です。

先生は高校用教科書『新日本史』を長く執筆されてきましたが、そのうちに文部省から300カ所にわたる修正を矯正されたことをうけ、この検定を違憲・違法と考えて国家賠償請求訴訟を3回起こされました。

そして第二次家永訴訟の通称杉本判決が、子供に教育を受けさせるのは私たちなのか、それとも国家機関なのかという部分に注目すべき判例を残しています。

これによれば「子どもを教育する責務をになうものは親を中心として国民全体であり、このような国民の教育の責務は、国民の教育の自由とよばれる」と定義しています。

そして「対立概念として、国家教育権があるが、国家は国民の教育責務を助成するために公教育制度の設定等の教育条件整備の責任を負うも、教育内容に介入することは基本的には許されない」としています。

ここでカッターナイフを取り出した中学の先生は、公務員ではあっても実は国家の側には入りません。

なぜなら教師にも憲法二三条によって学問の自由と教育の自由が保障されており、「国が教師に対し一方的に教科書の使用を義務づけたり、教科書の採択に当たって教師の関与を制限、あるいは学習指導要領にしてもその細目にわたってこれを法的拘束力あるものとして現場の教師に強制したりすることは、叙上の教育の自由に照らし妥当ではない」と同じ杉本判決がしているからです。

(参照:憲法判例百選1 芦部信喜・高橋和之・長谷部恭男 有斐閣)

家永先生は第三次訴訟で最終的に実質敗訴となりましたが、その生涯をかけて明らかにしようとしてくれたものは真実の伝達(教育)が先か、現実の政策(国家教育権)が先かという点です。

子供を教育する権利のありかに学説上の争いが続いていることも意に介さず、中学教師が教師でカッターナイフを光らせたと知れば、家永先生も草葉の陰でさぞや無念であろうと思われます。
 

 
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