ホームで化粧を注意されたひとと道徳の法律化

ホームで化粧注意され電車に接触させる・傷害容疑で女逮捕(日経新聞)

平成7年に削除された刑法の旧200条をご覧ください。

旧第200条(尊属殺)

「自己又は配偶者の直系尊属を殺したる者は死刑又は無期懲役に処す」
 

この規定が削除されるほんの10年前までは、私たちの社会では親を殺すと他人を殺した場合に比べて非常に厳しい刑が待っていました。

かつてこの規定の違憲性が争われた裁判において、最高裁裁判官多数意見は「尊属殺規定は道徳の要請であり、これを否定することは、道徳を封建的、反民主主義的と断定するものだ」として、結局尊属殺規定を合憲判断しました。

しかしこの判決にはその後不満がくすぶり続け、昭和48年に父親に犯されつづけた娘が父親を殺した有名な最高裁裁判判決において旧200条がやっと違憲無効であるとされました(最高裁 昭和四八年四月四日 大法廷判決)。

さらにそれから 20年まって尊属殺規定はやっと正式に刑法から削除されたのです。

道徳に対する法律の限界の問題は、ちょうどシルバーシートの問題に似ています。

シルバーシートのようなルールが道徳を半ば浸食した状態は不心得者を減らす反面、私たちの手から徐々に自治意識を奪ってしまう萌芽を含んでいます。

あれを見るとき、あなたの中になにか居心地の悪さを感じたことがあるならあなたは本来私たちが法の規定から守るべき意義深いエリアの軋む音を聞いたのかもしれません。

道徳というのはなにも日本固有の価値観ではありません。

カリフォルニアDMV(免許をとる所)で私は、学科の他に極簡単な 20分程度の実地試験を受けて彼の地の免許の交付を受けましたが、その際、緊急車両に対する対応方法などとくに教わりませんでした。

にもかかわらず、アメリカで運転しているときに救急車が近づいてきた場合、例え反対車線であろうとも運転している人は皆、一斉に道路脇に車を寄せますし、私もそうしていました。

救急車の横をすり抜けて走る日本の運転とは確実になにかが違っています。

アメリカでは放っておくと世の中は何でもありになるということを皆が身に染みているのです。

いろいろな国からきた人たちが自ら合衆国への帰属を希望し、社会の自由は自発的規律で皆がこれを極力保護しようとしています。

老人に席を譲れ、電車やホームで化粧をするな、書店やコンビニで携帯を大声で使うななどは現在法律・条例の領域ではなく、個人の育ちの問題です。

むしろ問題なのは、こういった粗野な行為に関わってヒステリックな事件が頻発するようになった私たちの社会では、放っておく以外の選択肢が狭まって、社会の共通態度が徐々に硬化していくというところにあります。

それは私たちの自由をさらに国家任せ、法律まかせにしていく危険を孕んでいます。

法律など当然万能ではなく、むしろ法に管理させない聖域に対してあなたがどのような心的態度で臨むのかが、一生の色付けにとって決定的に重要です。

尊属殺規定の削除によって、やっと刑法は道徳から解放されました。

しかしそれは道徳が野に下ったことをあらわすものではなく、道徳が本来の高みに登った瞬間だったはずです。

私たちはその意味を再認識すべきタイミングにさしかかっています。
 


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