ポールさんは言葉に果て、ガッツさんは言葉を手向けた

ポール牧さん自殺にガッツ「桜のように散っちゃった…」 (Yahoo)

「あの人は行動力はあるんだけど、谷あり山ありの人生を乗り越えられないようなところがあった。オレだって選挙に落ちたり、何億円も借金作ったりして、(飛び降りようと)高い所に上がったこともあるよ。でも這い上がってきた。病気の人だって生きようとするのに…。彼にはやり直そうとする“手本”を示してほしかった。桜が散るがごとく散っちゃったけど、自殺だけは言語道断だよ」と話した。

憲法の13条をご覧ください。

第13条〔個人の尊重,生命・自由・幸福追求の権利の尊重〕

「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」

自殺は違法だけど、可罰的違法性がないといわれます。

悪いことだけど、社会は彼の行為を罰せられないということです。

さてあなたは何故だと思いますか?

実はそれを罰しようとするのは個人の尊厳を脅かす思想だからです。

個人の尊厳とは一人一人の命をできうるかぎり社会は重く用いなければならないという原則のことです(私的定義)。

「個人の絶対」ではないことに注意が必要です。過去にあっては「社会の絶対」すなわち全体主義がこの国を覆った時代もありました。

個人の尊厳は社会に迷惑がかからない限度まで私達ひとりひとりに自由が与えられ、そしてその限度は私達自身が決めなければならないという社会システムの形を要請します。

そして現憲法で、個人の尊厳を立法的に保障しているのが憲法 13条であり、自殺する権利は法哲学上のタームである自己決定権に含まれるのだとする説が有力です。

13条は全てのこれから生まれうる新しい形の人権の子宮であり、またそういった不確定外形をもつ条文の存在が許されていることが憲法の本質的価値の源泉と解釈することさえ可能です(極私見)。

つまり法学的解釈では、最終的に国家が権力としてポールさんの選択を止めることは許されなかったであろうということになります。

それにしても上記記事におけるガッツさんのコメントにはいわゆる人としての教養の高さが満ち満ちています。

このガッツさんのコメントを読むと、インテリジェンス(情報の組成と表現)とは学習の残骸物ではないことを痛烈に感じずにはいられません。

育ちとは、親や環境や、まして他人に要求するものでなく、自分に与えられた選択の連続でしかないことを深く感じるものです。
 

 
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