未必の故意は吸着の法理

線路に突き落とされ重傷、出頭の男逮捕へ 大阪の地下鉄(朝日新聞)

「清水容疑者は「電車が来たら当然死んでいたでしょう」と容疑を認めているという。」

刑事訴訟法336条をご覧下さい。

第336条〔無罪の判決〕

「被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない。」 

もし点字ブロックにかばんを置いている時注意をしたあとで又その人が点字ブロックにまたかばんをおいたとしたら、電車が来た時落ちていたのは件の被害者だったのか、それともたまたま通りがかりかばんにつまづいた目の見えない人だったのかという仮定の話は別にして、各紙の報道で未必の故意を認定したくだりの表現が微妙に異なるのが気にかかります。

私自身が最初に聞いたのは「もし電車が止まらなかったかどうなったと思うか?」という警察職員の問いに対し、「死んだかもしれないでしょう」と答えたというTVのニュースでした。

もしその通りなら行為の瞬間には「死ぬかもしれない」という殺人の未必の故意があったとはいえず、故意が否定される結果刑法 38条により殺人未遂には問疑できない可能性があります。

(そのときはしかるべき罪を問疑することになります。)

たとえば実際には「みんなが見ているのだから、俺が突き落としてもきっと誰かが助けるだろう」と考えて行動したとしても、警察に出頭した途端「しかし人が落ちたところに電車が来たらどうなるか?」と刑事訴訟法に精通した司法警察職員に意図をもって問われ、「そ
れは死ぬかもしれません」といった途端、未必の故意という理論の適用で殺人未遂になる可能性があるということです。

(調書さえ記録に残すのは人間です。)

未必の故意とは犯罪事実を不確定的に認識しているという状態の認定をいいます。

特定の罪以外は過失不処罰で済む行為も、未必の故意ありとされると突然牢の向こうに入れられることになりかねませんので、本来未必の故意は非常にデリケートに扱われるべき刑法上の法理です。

しかし未必の故意はこの頃、その繊細な性質も意に介されず、言葉として勇ましく一人歩きを始めているようです。

時代の空気が捜査員はともかく、キャスターやコメンテーターの口の端にまで、未必の故意という言葉をあまりに易々とのせているように見えます。

あなたがもし父親で息子から人をホームに落としてしまったと相談を受けたなら、かならず弁護士事務所に一回立ち寄り、事情を正確に話して息子を扱うことになる刑事手続きの本質を理解してから出頭しなければなりません。

多くの人は刑法・刑事訴訟法を犯罪人を罰する装置だとお考えですが、実際にはそれらの法律は誤って捕らえられたあなたのために、真実の発見よりも人権保障の方向に高くその幹を伸ばして設計されています。

そしてその象徴が刑事訴訟法336条にいう有罪の判決があるまでは被疑者、被告人は有罪ではないとする決め事です。

これを推定無罪の原則といいます。

そもそも刑事訴訟法は、怪しい人間を次々捕らえては、ぐらぐらと煮え立った湯をたたえた大釜に手を差込ませ、声を上げた者から順に「神が有罪と下した」として死刑としてきた歴史から始まります。

刑訴法336条はその大釜を突き刺さして叩き割る条文です。

 

 

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