新潟9年間女性監禁、懲役14→11年に
「平成2年11月、当時小学4年生だった女性を連れ去り、9年2カ月間、監禁したなどとして、未成年者略取、逮捕監禁致傷などの罪に問われた被告の控訴審判決で東京高裁は「逮捕監禁致傷罪について法定刑を超える趣旨と言わざるを得ない」と、懲役14年とした一審判決を破棄、同11年を言い渡した。」
刑法の51条をご覧下さい。
第51条(併合罪に係る2個以上の刑の執行) |
刑法の51条には、併合罪は最高刑の半分を足した分を超えてはならないと書いてあります。
検察はこれをフル活用して15年を求刑し、一審も14年としました。
高裁がこれを短縮したわけです。
山田裁判長は判決理由で「併合罪は刑の上限を短く限定するためで、それ以上の意味はない」と判断。逮捕監禁致傷罪には最高刑の同10年までの範囲を超えて評価することは許されないとしました。
彼らは何を争っているのでしょう?
裁判長が迎えた葛藤とはどういった性質のものだったでしょうか?
わたしは前記裁判長の悩みどころとは「この被告はあなた方自身である」といういささか哲学めいたパラドックスにあるように感じます。
現法治社会において権力を抑えるのが法、その法をつくるのは国民の代表、その代表を選ぶのは他でもない私たち自身であるという構造をとります。
これを翻って見ると被告席とは入れ子構造であり、次はあなたやあなたの家族が立たされる「かもしれない」ということです。
つまり裁判長の独白はこうです。
「あなた達が納得して作った法の趣旨からはここまでが限界である。限界であるとは本被告の肩を持つ意でなく、あなたがここへ立つときもそれなら納得できるという限界である。もしそうでないなら主権者たるあなた方は投票なり政治活動なりを通じてこれを自身の身で科刑されても納得できる程度に改正していたはずである。私は法の番人である。番人とはたとえ感情的になった者に唾されてもあなた方自身が納得して作った法をあなたがたのために守り通す役の者である。」
「こんな非道なものにこんな軽罪とは、法とはなんとなさけないものだ」という了見はこの点で誤りです。
そこにたたされるのは私たちとおなじ主権者だからです。
そしてそこにたつのは、今度は間違えて捕らえられたあなたかもしれません。
「冷静になって彼の人権を考えよ」という意見もこの点で排除されます。
私たちが作ったルールで守られるべきは彼固有の権利ではなく本質的には国民全員の共有する権利をさします。
なにより現在の構造を(間接的に)維持しているのはほかでもないわたしであり、あなたであるというところが肝要です。
「国民主権」という法の最重要項目が裁判長に法的思考を働かせ、批判は当然予想しながら(かつその批判は裁判長が守ろうとする、私たち自身からやってくることを予想しながら)今回の短縮結果を下したという話ではなかったのかと思うのです。
法的思考とは「バランスのことだ」と単にいわれますが、私はこの入れ子構造をもって論じられるかという話のことだと思います。
「刑法が憲法のうら返しである」とは、これをさすように思いますし、話が民法や商法であっても同じです。
私たち自身が現在の秩序を間接的に維持していることを俯瞰的に捉えた時、(間接的という手段さえひとつの選択の結果でしかありませんが)はじめて裁判長の椅子の背中には13と書かれているのが透けて見えてくるはずなのです。