憲法14条の第1項をご覧下さい。
第14条 |
予備校で憲法を習った女性の先生は人権派弁護士で、授業の合間によくそういったエピソードが挟まれましたが、その中で一つだけひっかかっているエピソードがあります。
「私は択一の時、音の対策はできるけど臭いの対策が困るわねぇなんて女友達と良く話しました。」というものです。
私自身は答練でも集中できない程の体臭を経験したことはありませんが、そのとき唐突に昔あるドイツ人から聞いた話を思い出しました。
昔(おそらくいまも赤坂のドイツ関係施設に勤めている)ドイツ人から中古車を直接買ったことがあって、その人の自宅まで車を受け取りにいったことがありました。
居間に上げてもらってお茶をいただいているとき「ドイツといえばレニ・リーフェンシュタールっていましたね」と私が話をふったときです。
(レニはナチスの映画をとった写真家で、日本ではパルコの広告写真などを撮って有名です。)
日本人にとってはただの美しい写真を撮る写真家で、私自身感性と罪は別であるというふうに考えていましたが、そのドイツ人は静かな怒りを抑えながら30分以上レニ・リーフェンシュタールという感性の本質について語り始めました。
何故彼女は美しい肢体ばかりを撮るのか?何故彼女がナチス映画を撮影したのか?日本人が暢気にかたるようにレニは政治的に不勉強だっただけなのか?
彼にとっては答えは明らかで、すなわちそれは優性思想です。
美しいものは存在価値があり、そうでないものは排除したいという人類に拭えない汚点を残した思想です。歴史を前にしたとき、簡単に彼の話を極論とはいえません。
「優性思想を武力で実行したのがナチスであり表現で拡張したのがレニである。彼女がナチスに協力したのは、日本人が同情気味に考えているのと180度違う見解をたいがいのドイツ人は持っている」と彼はいいました。
確認していないのでどこまでそうなのか知りません。
私は予備校の女性の先生が陽気に何気なく口をすべらせた一言に、人間が皆もつ「自分と違うものを受け入れない影」の種を、ふと感じ、そのドイツ人のことを思い出したのです。
但し実際にその先生は少年事件に尽力されており、これは簡単にできることではありません。
ひょっとして人は自分の内側のそういった種があることを無意識にでも知っているからこそ (それを意識するしないにかかわらず) その反動として正しいことを行える原動力を得られるのではないかなと思うのです。
「本来誰も人を裁ける側に立つ資格はない」というのは、まさにそういう意味だと思うのです。