所有権で海を削れ

湘南・鵠沼、波高し…サーファー2団体が対立(読売新聞)

「神奈川県藤沢市鵠沼海岸で、海岸の利用ルールをめぐり、地元サーファー団体間で論争が起きている。漁協に「謝礼」を払うなど独自のルール制定を目指す団体が設立され、同海岸を使用すると県に届け出たことが発端。新団体は漁協の支持を得ているこ となどを理由に、他団体が海岸を使う場合は連絡するように主張。これに対して既存の団体が「浜の私物化につながる」と反発している。」

 

民法の85条をご覧ください。

 
第八十五条  この法律において「物」とは、有体物をいう。

 

ローマ法以来、ドイツやフランス法では海は私的所有の対象とならないものとして扱われてきました。

わたしたちの日本でも、地区名称区別改定(明治7年11月7日太政官布告120号)が海を官有地第3種として以来、海面および海面下の土地は一般に私的所有の対象とならないものと解釈されてきました。

しかし実は、海を構成する海水および海底が所有権の対象となるか否かについての明文は存在しておらず、その判断は解釈にゆだねられてきています。

明治以降の判例は、当初海面の公共用物としての性質を強調し、海は公衆の使用に供されるべきもので個人の独占は認められないことを根拠に、その経緯のいかんを問わず所有権の目的とはならないとしていました(大判大正4年12月28日)。

しかしながら一律にその所有権対象性を否定するのは明らかに具体的妥当性を欠いており、行政実務上も訴訟上も通説に対抗して所有権の存在を肯定する議論が根強くなされていました。

昭和32年以降の行政解釈は、この種の土地についても所有権が認められるとし、裁判例においても海面下の土地に所有権の成立を認めるものが増えました。

そして羽田空港二重登記事件最高裁判決が、結論として海面下にも土地所有権が成立することを認めています。

 

そもそも民法は、その85条で所有権の対象となる客体を「物」と呼んでいます。

そして所有権の客体である「物」となるためには、有体物であることのほかに解釈上以下の三つが必要とされています。

1 支配可能性、2 特定性・単一性、3 独立性です。

海については特に、1の支配可能性が問題になります。

そして物は権利主体による排他的支配が可能でなければなりませんが、支配可能な状態にさえなれば、その時点で海も「物」となりうるとした最高裁判決があります。

これが最判昭和61年12月16日の愛知県田原湾の所有権を争う判決です。

田原湾事件判決において具体的には所有権の成立は否定されたものの、一般論として「海面下の土地にも私的所有権は認めうる」という理論的余地を確保した点が実は法学上重要視されています。

 

人の生活をどう良く自然に織り込ませることができるのか、そのバランスは慎重に時代の判例を積み上げながら築いていく必要があります。

そもそも所有という人の申し合わせ自体、海という圧倒的な自然の前では、その理論的橋脚をやがて細くせざるをえないのですから。

 

(以上参照:民法〈1〉総則・物権総論 民法判例百選1 総則物権 第6版 (別冊ジュリスト No.195)  )



不同意堕胎罪:最も許されざる堕胎

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不同意堕胎で医師逮捕へ 交際相手に投薬疑い 警視庁(産経新聞)

「妊娠した交際相手に「栄養剤」と偽り子宮収縮剤を点滴して流産させた疑いが強まったとして、警視庁捜査1課と本所署は17日、不同意堕胎の疑いで、石川県内の大学病院に勤務する30代の男性医師について、18日にも逮捕する方針を固めた。捜査関係者への取材で分かった。刑法で定められた「堕胎」の関係条文が適用されるのは極めて異例。捜査1課は、医師の知識と立場を利用した悪質な犯行として、強制捜査の必要があると判断した。」

刑法の215条をごらんください。

 
第二百十五条(不同意堕胎)

「女子の嘱託を受けないで、又はその承諾を得ないで堕胎させた者は、六月以上七年以下の懲役に処する。
2  前項の罪の未遂は、罰する。」

 

不同意堕胎罪とは、妊娠している女性が頼んでもおらず、また承諾していないのにおなかの子供を中絶させてしまうことをわたしたちの刑法が罰するものです。

刑法典にある堕胎の罪の章において、自己堕胎罪(212条)や同意堕胎罪(213条)、業務上堕胎罪(214条)らに未遂の罪はありませんが、こと不同意堕胎罪に限っては、それが未遂でも処罰されることになっています。

本罪は、妊婦の身体に対する同意のない傷害行為なので、堕胎の罪のうちで最も違法性が強く、したがって未遂も処罰されるのです。

そして法定刑も自己堕胎が1年以下、同意堕胎が2年以下の懲役で比較的軽いのに対し、不同意堕胎は6月以上7年以下の重い懲役刑が定められています。

その刑法215条が護ろうとしている法益は、まず第一に胎児の生命です。

また不同意の堕胎の方が自己堕胎より重く処罰されることから、母の生命・身体も215条の保護法益であるとも推測できます。

とはいえ世の中では堕胎罪に該当する行為が毎日行われているのが現実です。

しかしそのほとんどは昭和23年に制定された優生保護法で正当化されていて、裁判はもとより捜査の対象になることもほとんどありませんでした。

平成8年には優生保護法母体保護法に改正されましたが、その緩やかな法解釈により、堕胎罪が厳しく適用されるようなことはこれまでありませんでした。

母体外で生命を保続できない時期以降の堕胎行為は、母体保護法をもってしても正当化されることはありません。

そしてその母体外で生命を保続できない時期は、厚生省の通達により昭和28年以降満28週未満とされていましたが、昭和51年1月に満24週未満と変更され、さらに平成3年1月以降は満22週未満とされています。

現在の人工妊娠中絶件数は,届出られた数だけでも289,127件でそれ以外にもかなりの暗数が存在すると推測されています。

しかし不同意堕胎という罪は、ひときわ残忍な罪質がひそんでおり、それが故にわたしたちの刑法は本条だけを未遂犯の処罰対象としているのです。

(以上参照:刑法各論講義 第4版

 

ある種の事情をもつ人たちにとって、新たな生命の誕生はひとつの”記号”でしかないかもしれません。

そして実は私やあなたの命も、他の人の事情によって”記号化”扱いされてしまう危険性がいつでも待ち構えています。

憲法が刑法215条の手を通して、母胎と胎児の両方の手に「尊厳」という護符を最初に握らせているのも、そうした危険な意図から護ろうとしているのです。(私見)



天才への憧憬と幸福の面積

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加藤元名人、猫エサやり敗訴も投了せず「給餌続ける」(iza)

「“天才棋士”と呼ばれた将棋の元名人、加藤一二三(ひふみ)九段(70)が、自宅のある集合住宅で野良猫に餌を与え、汚れや悪臭などの被害を出したとして、管理組合や住民が餌やりの中止と645万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁立川支部は13日、加藤氏に餌やりの中止と約200万円の賠償を命じた。加藤氏は控訴する考えで、簡単には“投了”しない構えだ。」

民法の709条をご覧ください。

第七百九条(不法行為による損害賠償)
「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害 を賠償する責任を負う。 」

 
騒音や震動、排気や臭い、廃汚水、日照や通風の妨害、電波障害など、周囲の他人の生活に各種の妨害や悪影響を与える行為のことを、民法学上生活妨害と呼んでいます。

日本では単なる生活妨害を超える深刻な人身被害が1960年前後から社会問題化、「公害」と呼ばれて盛んに議論されました。

生命・身体に被害を及ぼす「公害」が、権利侵害にあたることは言うまでもありませんが、生活妨害は権利・利益侵害との関係で実はやや異質な問題を含んでいます。

そのことを象徴的に示す古典的ケースが「信玄公旗掛松事件」です。

信玄公旗掛松事件とは、旧信玄公旗国鉄中央線日野春駅付近にあった、武田信玄が旗を掛けたといわれる松が、汽車の煤煙により枯死したため、所有者が国を相手取って損害賠償請求した大正8年の判決です。

鉄道会社が汽車を走らせる行為は、たとえ煙が周辺の木にかかろうとも本来適法かつ社会的に有用な行為だったはずですが、大審院はその判決上以下の論理を提示しました。

まず「権利の行使といえども法律に於て認められたる適当の範囲内に於て之を為すことを要する」、つまり「適当の範囲」を超えると権利の濫用となり不法行為責任が生ずるとし、そしてその「適当の範囲」とは「社会的共同生活」の必要から考えて、「社会観念上被害者に於て認容」すべきものと「一般に認めらるる程度」だとしたのです。

この論理は、たとえば猫の餌やりという権利の行使自体は適法であったとしても場合によって不法行為となりうる場合を認めるとともに、その判断基準としては被害者がどこまでがまんすべきかという観点を入れた点に特色があったのです。

(そして結論として、たとえ公共性の高い鉄道事業という業務行為であっても、程度を我慢の限度を逸脱していて、それは不法行為だということになりました)

その後公害事件が増える中で、信玄公旗掛松事件判決の論理はより明確な形で定式化されるに至ったのが、いわゆる受忍限度論と呼ばれる法理論なのです。

受忍限度論においては、不法行為の成否は端的に生じた結果が社会的共同生活における受忍限度を超えているかどうかという基準によって判定されます。

つまり受忍限度論をもって、適法行為による加害という生活妨害型不法行為に特有の判断基準が形成されたのです。

(以上参照:民 法 III [第3版] 債権総論・担保物権

 

加藤一二三棋士も、「なぜ完全に適法な餌やりという行為が不法行為と呼ばれるのか」として控訴する予定だといいます。

しかし民事法は、生まれてきた全ての人がそれぞれにできるだけ幸福を追求できるよう、原理としてのバランス装置を内蔵しています。

それはあるいは大衆の中に突然花咲く天才、その視点からみると合点のいかない原理なのかもしれません。

 

露命と法人

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絶縁状つきつけた!キン肉マン作者が吉野家と確執激白(産経新聞)
「《キン肉マンが29周年むかえたときお祝いの一環として集英社(=発行元)が吉野家に「なにかお祝いしませんか 今こそ恩返しするチャンスです」てふったところ「いや私どもはやる気はありません」と そこで手を挙げたのがすき家さんで「なか卯とうちは業務提携してます。ぜひともお祝いさせてください」》」「嶋田氏は吉野家から《永久でタダで食えるふれこみ》のどんぶりを受け取ったが、実際は無料にならなかったという。嶋田氏は最後に《決して吉野家さん嫌いにならないでください。今や牛丼は国民食》と訴えているが、同社のイメージダウンは避けられない。」

民法の709条をご覧ください。

 
第709条(不法行為による損害賠償)

「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」

民法上,人の声価に対する社会的評価を「名誉」といいます。

もし人を誹謗する記事を新聞に載せた場合のように、名誉を違法に侵害して人の社会的声価を低下させると、名誉毀損として不法行為になります。

このとき用いられるのが民法709条です。

平成9年のロス疑惑報道事件最高裁判決では、事実摘示と意見・論評の表明の判別基準にはじめて言及がなされ注目されました。

ロス疑惑報道事件とは、ロスアンジェルスで原告Xの妻Zが誰かに銃撃され死亡した事件につき、夕刊紙が「Xは極悪人,死刑よ」」「Bさんも知らない話… …警察に呼ばれたら話します」とのタイトルを用い、記事本文中には「元検事にいわせると,Xは『知能犯プラス凶悪犯で,前代未聞の手ごわさ』という」との記述をしたとの掲載を行い、これに対して原告が名誉毀損の損害賠償を請求した事件です。

最高裁は、「重要な部分について真実であることの証明があったときには・・・右行為は違法性を欠くものというべきである。そして仮に・・・真実であることの証明がないときにも、事実を摘示しての名誉毀損における場合と対比すると、行為者において右事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば、その故意又は過失は否定されると解するのが相当である。」と前提を置き、その上で、

「原判決は・・・真実と信ずるにつき相当の理由があったか否かを特段間うことなく、その名誉毀損による不法行為責任の成立を否定したものであって、これを是認することができない」と結論づけています。(つまり報道側の負けです)

このように一定条件の下、意見・論評の表明による名誉毀損が免責の対象になることを、フェアコメントの法理と呼んでいます。

これらは、確実に真実性証明の可能な事実しか報道・論評できないとすると、公の問題に関する言論をいちじるしく萎縮させてしまうという点に法理が求められます。

ロス疑惑報道事件判決により、”公正な論評の法理”が学説を超えて判例上も確立したといえるのです。

 

飲食産業と、彼らの業界をマンガで応援することになった作家が過去の応対を巡ってtwitter上で応酬する事態になっています。

たとえ現実はひとつでも、居合わせた人の数だけその心理的事実は存在しています。

彼の発言がフェアコメントの域に収まるうちは、判例法理上も民事責任を問われることはないでしょう。

そしてこうしたやりとりがあからさまになる時代、法技術により永遠に生き続けることが許された法人、つまり虚人が、やがて命尽きる自然人と対立するとき、法人に礼節の態度が要求されることの意味が再び浮かび上がるようにも思えます。

 

(参照資料)

集落:生贄のヤギとアザゼルのヤギ

Tower

「私は無実」訴え続け84歳…奥西死刑囚、時間とも戦う
「「判決主文を言い渡すからね」。法廷でこう切り出した高裁の裁判長は、一呼吸置いて「被告人を死刑」と続けた。閉廷後、両手に手錠をかけられ、拘置所に移送された。72年、最高裁で死刑が確定。「やっていない事はやっていないと、言わないかん」と励まし続けた母親は、88年に84歳で亡くなった。死刑の執行を恐れながらの拘置所での生活。これまで処刑や獄死で見送った死刑囚は二ケタを数える。70歳を目前に控えた93年には、死亡した時に私物を届ける先や献体を希望する先などを聞かれ、いよいよと覚悟したという。」(朝日新聞

刑事訴訟法の435条第6項をごらんください。

第四百三十五条 

「再審の請求は、左の場合において、有罪の言渡をした確定判決に対して、その言渡を受けた者の利益のために、これをすることができる。

六  有罪の言渡を受けた者に対して無罪若しくは免訴を言い渡し、刑の言渡を受けた者に対して刑の免除を言い渡し、又は原判決において認めた罪より軽い罪を認 めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき。 」



再審とは有罪の確定判決に対し、その効力をくつがえすものです。

そしてその型には、ファルサ(falsa)とノヴァ(nova)があります。

ファルサとは、確定した判決が事実を認定するのに使用した証拠などが虚偽だったり、偽造などがなされた場合に再審を認める型です。

対してノヴァは、明らかな証拠があらたに発見されたときに再審する型です。

かつて最高裁は再審に対して非常に厳しい態度をとっており、重大事件に再審が開始され無罪判決が言い渡されたのは非常に数が少なく、それは「開かずの門」とまで言われました。

しかし昭50年、再審開始基準について白鳥事件最高裁決定が画期的な判断を示し、それが多くの重大事件を再審開始に導くこととなりました。

わたしたちの刑事訴訟法435条6号は、証拠の新規性と明白性を要求していますが、この点の判断方法に対して白鳥決定はこう示しました。

(1)確定判決の証拠構造を分析し、新証拠がその証拠構造においてどの位置にあり、どのような役割を果たしているのかを確認し、

(2)新証拠が旧証拠の証明力を減殺した場合に、確定判決がした有罪認定にどのような影響を及ぼすのかを新証拠と旧証拠とを総合的に検討して判断する。

この判断方法は、冒頭の名張毒ぶどう酒事件にも踏襲されました。

名張毒ぶどう事件とは、小さな集落の会合で供された葡萄酒に密かに毒が盛られ、たくさんの人が亡くなった事件です。

最決平9・1・28は、白鳥決定を用いて再審をこう否定しました。

(1)原確定判決が被告人Xの犯行だと認定した根拠は(a)犯行の場所と機会に関する状況証拠(b)鑑定(c)自白調書の3証拠群である。

(2)X提出の新証拠は,(b)鑑定の証明力を大幅に減殺した。

したがって,(3)新証拠とその他の全証拠とを総合的に評価した結果「確定判決の有罪認定につき合理的な疑いを生じさせ得るか否か」が問題である。

検討するに(a)犯行の場所・機会も(c)自白調書の任意性・信用性も揺るがない。

したがって新証拠によって(b)鑑定の「証明力が大幅に減殺されたとはいえ、新旧全証拠を総合して検討すると、犯行の機会に関する情況証拠から、申立人(X)が本件犯行を犯したと認めることができ… 確定判決の有罪認定に合理的な疑いを生ずる余地はない」。

いかがでしょうか。

この論の進め方は、「確定判決の証拠構造が揺らぐか」という視点に固執しているようにも読めます。

そしてそのような姿勢のことを、証拠構造論と呼んでいます。

しかしながらわたしたちが、無実かもしれないと見守る裁判のありかたとして(そして全ての裁判にはそうした視点が不可欠ですが)、テクニック論よりも、是非有罪か無罪かをテーマに証拠の明白性判断を論じてほしいと思うのが自然かもしれません。

その意味である証拠を固定的に位置づけてしまう証拠構造論は、人権の最後の砦たる裁判所を、裁判のための裁判の場所へと収斂させてしていってしまうのではと危惧させます。(私見)

名張毒ぶどう事件の被告人、奥西勝さんは集会前日に葡萄酒に毒を入れたのだとされています。

しかしながら「魔の時間―六つの冤罪事件 (1976年) 」によればその寄り合い、「三奈の会」に葡萄酒がでるかどうかは、当時の会長、奥西楢雄さんの判断一つに任されており、誰も知りませんでした。

事実会長が葡萄酒を出すことを決めたのは当日朝だったといいます。

また警察で接待を受けた集落の某有力者にも奥さんと愛人との三角関係があり、惨劇のあった日は奥さんと大喧嘩をしたといわれ、その奥さんは何故か盛装して会に出席、毒ぶどう酒を飲んで死亡しています。

一審判決では、この家でも毒を入れるチャンスがあったことを、かなりはっきりと指摘しており、事件をめぐるナゾは、まだ十分に解明されたとはいえません。

ときにえん罪を突き進める要素は、法廷の遠くからも押し寄せるため、司法というシステムにはそれらを判じ上げる尋常成らざる集中力が必要であり、「再審」という装置こそは誤って捕らえられ続ける人を救済する最後の非常手段なのです。

よもや生け贄のヤギを執拗に差し出すことでもたらした贖罪が、集落の安寧などであってはなりません。



(参照資料)


少女はヒマワリを夢見て死んだ

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虐待死の恐怖救え 聖香さん事件1年、厳罰化訴え遺族ら署名活動

「聖香さんと双子の妹(10)は両親の離婚時、母親の美保被告に引き取られた。しばらくして妹が「(小林被告に)殴られる」と哲也さんの家に逃げてきた。だが、母親が大好きだった聖香さんはとどまり、繰り返し暴行を受けたという。捜査関係者によると、1年前の4月ごろには食事を満足に与えれず、極度に衰弱していたにもかかわらず、母親と内縁の夫に自宅のベランダに遺棄され、「ヒマワリを探しているの…」といううわごとのような言葉を残し、昨年4月5日午後3時半ごろに亡くなった。」(産経新聞)

児童虐待防止法の11条1項をご覧ください。

児童虐待の防止等に関する法律

第11条(児童虐待を行った保護者に対する指導等)

「児童虐待を行った保護者について児童福祉法第二十七条第一項第二号の規定により行われる指導は、親子の再統合への配慮その他の児童虐待を受けた児 童が良好な家庭的環境で生活するために必要な配慮の下に適切に行われなければならない。」

 
これまで児童相談所は、従来虐待家庭を指導し家庭を立て直す機能を重視してきましたが、昨今子どもの保護のために強権を発動する権限が求められる状況となってきました。

しかしながら児童相談所にはそれに関する十分なノウハウの蓄積がなく、現在児童相談所は弁護士の協力を得て後者の機能を強化しています。

児童相談所は、措置の一環として、児童福祉司等による指導を定めることができますが、児童虐待を認めない親は、この指導を拒否しがちです。

このような場合に備えて、児童虐待防止法11条1項は保護者の指導の際の配慮を規定したうえ、保護者は指導を受けなければならないとしています。

そして、同条三項で「前項の場合において保護者が同項の指導を受けないときは、都道府県知事は、当該保護者に対し、同項の指導を受けるよう勧告することができる」と定めていますが、罰則規定がないため、本条の実効性については疑問視されています。

危険な場合、親の監護権の停止権限を持たせた家庭裁判所による受講命令制度が必要だと考えられます。

子どもの虐待に関する法システムは、① 発見・通告、② 事実調査、③ 保護および援助(処遇)、④ 治療ないし指導、の四つの局面から構成されています。

このうち、児童虐待という疾病を社会全体で根治していくためには、治療ないし指導の局面が重要です。(参照:基本法コンメンタール 親族 第5版

では子供達の親によるむごいニュースを聞かなくなるためには、わたしやあなたはどういう仕組みを社会に組み込むべきでしょうか。

(以下「インナーマザー斉藤学 新講社) 」から、児童虐待の心理的構造について引用してみます。)

 

児童を虐待する親は心理的成長が不完全に終わっている場合が多いといいます。

その点で小児科学には、「成長の失敗」という概念があり、サバイバーとスライバーという用語があるそうです。

サバイバーとは、親による虐待などによって、その後の人生が影響を受けたと考えている人のことをいい、スライバーとは「サバイバーであることを主張する必要のなくなった人」のことをいいます。

スライバーは以下のような特徴を備えているといいます。

① ひとりを楽しめる。
② 寂しさに耐えられる。
③ 親のことで過剰なエネルギーを使わない。
④ あるがままの自分にやさしくできる。
⑤ 他人の期待に操られない
⑥ 自分に選択があることを見つけられる。
⑦ 自分の選択したことに責任を取れる。
⑧ 自分は世の中に受け入れられて当たり前という確信を抱いている。

子供を虐待して殺してしまう親など私達は絶対に許容できるものでなく、わたしやあなたの処罰感情は法の厳罰化を求めて当然です。

しかしながらスライバーの特徴を見る限り、それは少なくとも私自身にも欠けている要素ばかりであり、彼女たちが特別私からかけ離れた化け物であるようには思えません。

母親は乳幼児とともに過ごすことで、ある種の子供返りを行い、それが長い間封じ込めてきた「内なる子ども」の憤怒を表に出すことになるといいます。

社会から児童虐待という病巣を真の意味で取り除くには、児童を虐待する母親たちの心理的成長につきあう人々が必要だということです。

全ての母親が、いつも子どもがかわいくてたまらない必要などありません。

どんな女性でも、子どもを産みたいと思うときもあれば、子ども なんて面倒なものは欲しくないと思うときもあるほうが、道徳を押しつけられる前の生き物としては自然です。

しかし多くの母親が母性本能という神話にとらわれ、現実的に不可能な、子どもに自分のすべてを捧げる献身的な良い母親になろうと努力してい ます。

それゆえ、自分だけの時間がもっと欲しい、子どもが面倒だ、自分の子どもなのにかわいいと思えない、そんな気持ちを持ってはいけない、そんな感情を 持つのは子どもを愛していない身勝手な悪い母親だ、と自分を叱責し、感情を押し込め、じっと我慢を続けます。

押し込めてきた感情はあるとき突然、「自動的に手が動いて」わが子を突き飛ばしてしまうことで放出されます。

そして一端切れた堰は簡単には止めることができず、無力な子どもを虐待する葛藤の日々が始まる、これが児童虐待のメカニズムなのだというのです。

今、重要なのは子供に尽くすより完璧な母親をわたしたち社会が要求することではなく、現実に今夜も虐待される子供達を助け出すことであるはずです。

果たして法の厳罰化は、彼らの隠された憤怒を果たしていさめ、今もおびえながら親の顔をうかがい生きる子供を現実に救い出すことができるか、そこが肝要です。

 

幼かった聖香さんがベランダで亡くなったとき、薄れゆく意識のなかでヒマワリをさがしていたといいます。

あるいはその花でさえ、本来あるべきだった暖かい家族全員のために摘もうとしていたのかもしれません。



人の権利と国家へのコマンド

自民、徴兵制検討を示唆 5月めど、改憲案修正へ
自民党憲法改正推進本部(本部長・保利耕輔政調会長)は4日の会合で、徴兵制導入の検討を示唆するなど保守色を強く打ち出した論点を公表した。これを基に議論を進め、05年に策定した改憲草案に修正を加えて、憲法改正の手続きを定めた国民投票法が施行される5月までの成案取りまとめを目指す。」(共同通信)

憲法の18条をご覧ください。

第18条〔奴隷的拘束および苦役からの自由〕

「何人も,いかなる奴隷的拘束も受けない。又,犯罪に因る処罰の場合を除いては,その意に反する苦役に服させられない。」

 

憲法18条はその文言で、犯罪に因る処罰の場合を例外視しています。

その主眼は例外規定を「犯罪に因る処罰の場合」に限定することで、それ以外の例外を認めないところにあります。

たしかに欧米の伝統では兵役は国民の自律的義務であり、「苦役」とは異なると考えられていますし、現実に憲法に兵役義務を定める国も多く存在しています。

さらにいえば日本が1979年に批准した「市民的及び政治的権利に関する国際規約」もその8条で兵役は「強制労働」に含まれないのだと明定しています。

したがって一見、徴兵制もわたしたちの憲法18条には反しないと解釈が出来そうです。

しかしながら、かつて兵役義務を規定していたわたしたちの旧憲法であればともかく、それを明確な態度で取り外している現憲法下において、徴兵制を設けるのは仮に9条の存在を論の外に置くとしても、現憲法18条に反することになる、そう解釈するのが現在の法学説上の通説です。(野中俊彦 憲法〈1〉

そしてその解釈には、憲法にいう自由権とはなにかという問題が埋設されています。

そもそも自由主義とは、国家が国民の生活に不当に干渉するべきではないとする考え方です。

それは個人の尊厳というものをこの世に現出させるための基本原理です。

そしてこの自由主義思想を反映して, わたしたちの憲法は国家が個人の生活に干渉するとき、その国家の行為を抑止できる権利、すなわち自由権として1人1人の国民にその文言を与えています。

つまり憲法にいう自由権とは、国家による束縛に対抗する国民の盾であり、防御の要なのです。

さらにいえば自由権とは、国家が個人に与える温情なのではありません。

私たちは1人1人が他と代えがたい人格を持った価値ある息吹であり、また生まれついたその瞬間から自分自身を支配する王であって、本来どんな活動であれ不当な拘束を受けることはありません。

つまり『自由』とは、人が国家に対して当然に有する権利なのです。

自由権が、『前国家的権利』なのだと言われるのはこのためです。

その意味の前では、論理操作だけで死刑にする人を決める司法という装置も、恐ろしく壮大なファンタジーだといえます。

すなわち私やあなたの暮らすこの国の現憲法の脊髄を、脈々と「法の支配」という思想が流れているのは、議会の議決がわたしやあなたの有り様を変形させ得る「法治主義」システムを排斥した、社会生物的進化だといえるでしょう。(私見)

 

かつてハインラインが記した、地球の植民地である月が独立を目指して革命を起こすSF小説月は無慈悲な夜の女王」から、印象的な一節を引用してみましょう。

『あなたがたが憲法を作られるにあたって、私にひとつだけ言わせて下さい。

否定のすばらしい美徳についてです!

否定の強調についてです!

あなたがたの作ろうとしている憲法の原案を、政府が永久的にしてはならない事項で埋め尽くすのです。

徴兵制禁止、ほんの僅かな自由の制限もなし、出版、言論、旅行、集会、信仰、教育、通信、職業に関する干渉、そして、 自らの意思に反する税金も禁止。

みなさん、もし今までの歴史を十分に研究して、あなたがたの政府が絶対にやらないと約束すべきことを、あれこれ考えたあとで、あなたがたの憲法をそういった否定だらけのものにするなら、わたしはその結果に恐れたりしないでしょう。

私がもっとも恐れているのは、必要不可欠のように見える行為を政府に行わせようとして、政府にその権限を与える、真面日で、善意ある人々の確信ある行動なのです。』(以上参照:月は無慈悲な夜の女王 (ハヤカワ文庫 SF 207)

 

憲法は国家への否定命令文である」、ハインラインは1967年にしてその重い真実を、SF小説に仮託しています。(以上参照:LEC 全体構造テキスト)